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タイムバンクは時間を売り、VALUは価値を売る

株式会社メタップスの副社長、山﨑祐一郎さんにお会いする機会があり、色々とお話を伺ってきました。
メタップスといっても知らない方もいらっしゃるかと思いますが、個人の時間を売り買いするサービス「タイムバンク」の運営会社だといえば、わかる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

山﨑さんは『お金2.0』を書かれたCEO佐藤航陽さんとは創業時からの仲で、当初はCFOという立場で未上場企業としては最大規模の60億円という資金調達を成功させた方です。
そういった経験を持つ方から、実際の資金調達の流れなどのお話を聞けたことがとても貴重でした。

その中で、「VALUとタイムバンクの違いについてどう思いますか」という質問を投げかけてみました。
VALUとは、タイムバンクと同様に、個人の「価値」を売り出すことができるサービス。タイムバンクもVALUも評価経済という枠組みの中で、個人がお金を集めるというサービスではコンセプトは似通っています。

すると、山崎さんからは、
「タイムバンクは『時間』というモノを売買している。VALUは販売するモノがない」
「個人の価値のトレードという概念はふわっとしていて、その意味でVALUの仕組みはよりクラウドファンディングや寄付に近い」
「対価が明確でなければマーケットが大きくならないため、流動性が上がらない、その結果広まらないのではないか」
といった回答を頂きました。
では、企業のICO(Initial Coin Offering)とVALUの仕組みは似通っているが、その点の違いは?と追加で質問をしたところ、
「企業のICOに対し、VALUは『個人のICO』と言える。ただ、企業についてはいずれ上場するといったところからそのトークンに流動性が生まれるので売ることができる」
という回答でした。

ある方が、VALUの評価をする時に
「流動性が全て」
という言い方をしていたのが腑に落ちる回答でした。
現在の流動性が落ちてしまったVALUでは、やり取りすることができないトークンには価値が乏しいというのも確かにそうでしょう。

では、VALUはこのまま終わってしまうコンテンツなのかと言えば、私はそうではないとも思っています。
山﨑さんの指摘を逆手に取れば、VALUでトークンと引き換えに売り出すものそのものに価値があれば、そのトークンは売れる。つまりは優待自体に価値を持…

社会的インパクト投資:マギーズトーキョーへの寄付とは

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マギーズトーキョーから寄付金納入についてのお礼状を頂きました。

実は、私はこれまで2冊の単著を上梓しているのですが、その両方とも「マギーズトーキョーへの寄付つき本」になっており、私への印税の一部が自動的にマギーズトーキョーへ振り込まれる仕組みになっています。

『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』
『「残された時間」を告げるとき~余命の告知Ver.3.1』

本を書いたことがある方はわかるかと思いますが、印税が振り込まれるのって本ができてから1年以上先とか普通にあることなんです。
1冊目の刊行が2016年2月だったのですが、その印税がようやく入ったということですね…。

以前にもこの件ではブログを書いたことがありますが、マギーズトーキョーへの寄付つき商品の開発は、多くの方にお勧めしたいです。

ただ、私は別に慈善活動家ではありません。
単純に、自分の稼ぎの一部を施す…というような考えをもっているわけではありません。
私の中では「これは投資である」と位置付けているからこそ、マギーズトーキョーへの寄付つき本を次々に出しているのです。

その動機は、以下の3つにまとめることができます。

①社会的インパクト投資という考えを世の中に広めたい
②寄付市場規模の拡大を狙いたい
③暮らしの保健室の仕組みの持続可能性を高めたい

順に解説していきましょう。

①社会的インパクト投資という考えを世の中に広めたい
一般的に「投資」というと、ある物品やサービス、またはそれを生産する会社に対して資金を投じ、そのサービスや会社が成長することでの金銭的リターンを得るという考えが思い浮かぶでしょう。
「投資」は大きくなければリターンも大きくならないので、株などで多額のお金を動かすというイメージもあるかと思います。
それに対して「寄付」というのは、慈善として、ごく少額のお金を施すというイメージがあるのではないでしょうか。募金箱をもって街頭に立つというイメージ。
しかし、本当にいい活動をしている非営利団体への寄付は、その資金によって事業規模が拡大すれば、社会全体が改善し、結果的に自分たちの暮らしが良くなるというリターンが得られます。さらには、営利企業や行政では手を出せなかった課題に取り組んでいる非営利団体が成長することで、課題が解決され、結果的に出資者への経済的な効果が生まれるということもあります。
これを「社会的インパクト…

Pt's Voice004:友人と富士山に登りたい。だから治療してくれ。

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もう十分長く生きたし、思い残すことはないよ
治療を受けてしまったら、また人生に未練が生まれてしまう

と言って、その方は全ての治療を断わった。
私は説得したけども、その方の意思は固かった。
それもその人の生き方。強い意志ならばそれもひとつだろう。

しかしある時、その方は言った。

なあ先生、がんを小さくする方法ってのはないものかな?

「えっ?それは抗がん剤ですが、治療はしないって…」

するとその方は照れ臭そうに

いや、昔からの友人がね、「死ぬ前に富士山に登ろうぜ」って言うんだ
でも、がんが大きくなってしまって今の体じゃ山に登れない
だから、ちょっとだけ、小さくしてくれないかな
友人との約束のために

ああ、そうなんですね。
その友人との約束が、人生の未練になってしまったのですね。
そんな未練は、いいですね。
あなたと友人との約束のために、医師として全力を尽くしますよ。

モナコインとビットコインを投げ銭して気づいたこと

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先月から、polcaというサービスを利用して、「暮らしの保健室」の運営費用を集める実験をしていました。
12/7の夜まで募集しているので、ぜひご支援いただきたいです!
https://polca.jp/projects/5ozCwJ4FEDm

さて、今回の実験の目的は3つ。

①polcaというサービスの使い勝手と友人での利用状況の確認
②実際にどのくらいの額が集まるのかということの確認
③モナコインとビットコインの投げ銭による広告効果の確認

です。
私は1月に「社会的処方研究所」という企画の立ち上げを控えており、そのPR戦略を組むために、この実験を行っていました。

まず①については、少なくとも自分の周囲では「polcaって何?」という方が多く、暮らしの保健室が対象とする層とはアンマッチという印象。
まあ、それは開始する前からある程度予想はしていたし、今回の企画で少しでも知ってくれる方が増えたらいいかなと。
使い勝手としてはやはり使いやすいので。
ただ失敗したのは、説明文を入れられるスペースがないこと。polcaのページを開いただけだと、どういった目的での支援募集なのかがわかりにくい。「暮らしの保健室」って何?ということを説明できない。タイトルに入力しなければならないんだけど、これって結構難しいなーと。だから「フレンドファンディング」なんだろうけどね。

②については、この記事書いている時点で1.2万円。
本当にありがたい。
polcaのIDだけだとわからない方もいるので、どういった方々から支援頂いているのかがはっきりしないのだが、嬉しいことです。
ただ、逆に言えば自分+polcaで集められる額はこれくらい、という現実でもある。
これはしっかり見つめないといけない。

そして本題の③。
これは、「社会的処方研究所」のクラウドファンディングを今後行うに際し、そのPR方法としてモナコインとビットコインの投げ銭がどれくらい使えるかということの予備調査。
本当は、モナコインとビットコインをほぼ同時期に行う予定だったのですが、ビットコインの準備をしている間に、モナコインが急騰しそうな気配があったので、前倒しでスタートしたという経緯がありました。

【RTでモナコイン①】
医師や看護師が店員のカフェ?川崎の「暮らしの保健室」
ちょっとした悩みや、病気にかかった際の困りごとを相談できる…

Pt's Voice003:病院で死ぬというのは、旅先で死ぬようなもんだよ。

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家に帰りたい、とその方は言う。
病状は不安定、家族も心配している。
家に帰って、どうしてもしたいことがあるんでしょうか?
と、私は尋ねる。

いや、別にしたいことがあるっていうんじゃなくて・・・

と、その方はしばし考えて

先生ね、俺はもう長くないんだろう?
だとしたら、このまま病院では死にたくないよ
ここは、俺の居場所じゃない
このまま病院で死んでしまったら、それは旅先で死ぬようなものだよ
俺は、自分の家に帰って死にたい…

そうか、そうですよね…じゃあ、望み通り、家に帰りましょう…

死は受け入れられるのか否か

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先日、とある方が「死について事前に話し合っておけば、死を受け入れられるようになる、と考えるのは危険だ」と発言していました。

しかし、医療者は日常的に「あの患者さんは(死に向かっていく)病状を受け入れています」とか「病状を受け入れていませんので、医師からきちんと説明してください」などという発言を繰り返しています。

さて、ここでの疑問は、「そもそも人間は死を受け入れることは可能なのか否か」という点です。
皆さんはどう思われますか?
自分が、数か月以内に死に至る病にかかったとして、それを受け入れて死に対峙することができそうでしょうか?

エリザベス・キューブラー=ロスは『死ぬ瞬間』という著作の中で、死を予告された患者がたどる心理プロセスとして、
最初はその病状を否定する「否認」
→「どうして自分が」という「怒り」
→何とか死なないですむ方法がないかを模索する「取引」
→そして抑うつ
という過程を経て、最終的に「受容」へと至るだろうということを書いています。
緩和ケアにおいては、この「受容」へのプロセスを導くことがケアの望ましいあり方と、考えられているような節があります。

ここで考えないとならないのは、「受け入れる」というのはどういう状態を指すのかという点です。
「私は最後まで治療に前向きに生きていきたい」と言えば「受け入れていない」ことになるのか。
「もう諦めました」とつぶやき、うなだれている患者は「受け入れている」ことになるのか。

私は、人間の死に対する心理というのが「受け入れているか、受け入れていないか」などときっぱり分かれることはないと考えています。
ある時は医師の前で「もう思い残すことはありません」と笑っていても、受け持ちの看護師の前では「死ぬのが怖い」と涙を流しているなんてこともありますし、緩和ケアの医師の前では「ホスピスに入れてもらえてありがとうございます。あとはお迎えが来るのを待つだけです」と言っていたのに、腫瘍内科医が回診に行くと「先生、がんに効く画期的な新薬の情報はありませんか?」などと発言したりします。
これは、どちらかが建前でどちらかが本音、ということではなく、どちらも本人の「本音」です。
死を考えることは怖い、でもいずれ来る未来に向けて今は精一杯生きていきたい、ただふとした瞬間に「もう終わりにしたい」とも思う…など、患者の思いは多彩で移ろうもので…

Pt's Voice002:私、がんになってもいい、と思えるようになりました

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「どうしてそう思ったのですか?」と患者さんに聞いた。

私はね、近い将来、必ずがんが再発してくると言われてる
以前はね、がんになることが恐くて恐くて仕方なかったの
でもね、こうやって話を聞いてくれる人たちができて
支えてくれる人たちができて
ああ、もうがんになっても、安心だなって思えるようになったの
ここに頼りさえすれば、大丈夫って

だから、がんになってもいい、と思えるようになったのよ。

教祖になりたがる医師

緩和ケアの医療者なのに、特定の治療法が「正しい」って言ってしまうという事例があることを知る。
先日は、「全ての抗がん治療をあきらめないと緩和ケア病棟には行けない」っていうのもあったけど、どうして医療者側が自分たちの信念を患者に押し付け、人生を操作しようとするのか。

そりゃあ、「抗がん剤はもうありません」って言われて絶望した患者さんに「こんないい治療があるよ」って言えば、患者さんは信じると思うよ。
でも、それで患者さんの希望をつないだと思っているなら勘違いも甚だしい。

効かないかもしれないけど、効くって信じて何らかの代替治療を続けるのが希望?
患者さんが自分でそう信じるのはいい。
でも医師がよかれと思ってそれを勧めているのだとしたら、もうそれは完全に「医者っぽい」考えの塊。
だとしたら、その患者さんの人生はどこまで行っても絶望しかない。
気づくのを先延ばしにするだけ。

患者さんの希望は、患者さんの中にしかない。
誰かが外から与えられるものじゃない
探す手伝いはできるけどね。

緩和ケア医療者は、自分の死生観はしっかり持っておくべきだけど、それは切り分けて、真っ新な状態で患者さんと向き合えるようでないと、患者さんの人生を操作することになる。
医療だって宗教の一種と考えて相対的にみれば、もう少し自分たちがやっていることが冷静に観られるようになる。
宗教なんて非科学的だ、と言っている医療者が好んで医療という宗教の教祖になりたがるなんて滑稽じゃないか。

医師は神様でも仏様でもないよ。
私たちを拝んでもあなたの人生の道が見つかることはない。
私たちができることは、考えの枠組みを披歴することと、薬という手段でのちょっとした手伝いだけ。
人生の道、あなたの神様はあなたの中から見つけるしかない。

医療に人生を合わせるのではなく、人生に医療を合わせる。

大事なことなのでもう一度書きますが
「医者が提示する治療に、患者の人生を合わせる」
のが常識ではない。
「患者の人生がまずあり、それに医療が合わせていく」
のが当然。その当然の前提が、病院という場では危うくなるのが今の医療の現状。 — 西智弘@VALU開始 (@tonishi0610) 2017年11月18日
先日、私のツイートの中では結構RTされた投稿があったので、ちょっとまとめてみる。

私は腫瘍内科医で、基本的には患者さんに抗がん剤治療を行うことがメインの仕事だが、私の外来では結構な割合で「抗がん剤は希望しません」という方が出る。
最近もまた、2名ほどの方が、抗がん剤治療を希望されずに緩和ケアに専念する生き方を望まれた。
しかし、全員が抗がん剤を希望される価値観なんてあるわけがなく、一定数こういった方がいる方が普通。
皆さん、私の外来で「自分の望む生き方」を話されていく。
医師側が一方的に「あなたの生き方は抗がん剤を行いながら生きていくことに決まりました」としなければこうなる。

外来でまず聞くのは「病状をどう受け止めているか」。
その次に抗がん剤の説明をするが、他に「あなたはこれまでどういう人生を歩んできていて、これからどうしていきたいか」「今の心の支えとなっているものは何か」といったことを聞く。それがないと、その方に抗がん剤がいいかを決められない。
最初は「抗がん剤なんて受けません」と言っていた方でも、患者の望む未来のために抗がん剤が必要と考えれば説得するし、「抗がん剤受けようかな」と言っている方でも、副作用の影響が大きく生き方を損なうようであれば勧めない。

医療に人生を合わせるのではなく、人生に医療を合わせる。
それは当たり前のこと。


落合陽一さんへの違和感とAI時代の医師

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(2017/11/24落合陽一さんご本人からのコメントを文章最後に追記)

最近、落合陽一さんの言説にはまっている。
著書も読んでいるし、ネット上で見つけた記事は片っ端から見るようにしている。
情熱大陸も(一応)見た。

しかし、落合陽一さんの言説を知るほどに、自分の中での違和感が広がっていった。
これはなんだろう?と考察した結果、自分が行きついた結論は
「それは自分が医師という職業の中で生きているからだ」
という点である。

先に述べておくが、これは落合さんを批判する文ではない。
むしろ、落合さんの言説にはほぼ賛同しているし、これから述べることも著作の中できちんと考察されている。
この文は、それを医師という背景からとらえ直したものである。

まず、落合さんに抱いた違和感について書く。
それは、彼の描く未来像への違和感である。
これからの人類がどういった方向に向かっていって、そのために私たちがどういう考えの枠組みで、どう行動をすればいいのか、ということを落合さんは示している。
機械と人間の融合が進み、機械との対比という形で培ってきた近現代の人間性は失われていく。「1600年以降に培われた人間性のことは忘れてください」とも述べている。
その描く未来そのものは真実だろうし、そうなっていくべきだ。
しかし、その一方で「古典的人間性を保とうとする集団」も残り、そこで対立や衝突が起こりうることを落合さんは指摘している。そして、その両者が「分断されることがないことを願う」とも述べているが、ではその分断が起こらないためにどのような解決法があるのか、ということへの言説は薄い。
多くのメッセージは前者に向けたものである。

ここで、私たち医師が考えなければならないのは、私たちはこの未来に対してどのように向き合うべきかということである。
前者の未来を追い、医療の世界にも積極的にテクノロジーを導入し融合していくべきなのか、それとも古典的な人間性を重視したり、職人的な技術で勝負していこうという道を選ぶのか。
最近の医療界でも、この「AIが医師の仕事を奪うか否か」という議論が盛んになってきている。
「AIはいずれ医師の仕事を完全に担えるようになる」という方もいれば、
「医師の仕事はプログラムのようなものでは代替できない専門性がある」という方もいる。

私は、この両者とも間違いだと考えている。
医師の仕…

Pt's Voice001:俺たちはロボットと話をしに来ているわけじゃないんだ

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初診の外来で、その患者さんは言った。
これまでの医者は、だれも、自分の目を見て話してくれなかったらしい。

多くを求めているわけじゃない
専門的な知識と
人間らしい扱い
それが俺たちが求めるものなんだよと、その患者さんは言った。

俺たちは、ロボットと話をしに来ているわけじゃないんだ。

【Pt's Voice001:I'm not coming to talk to the robot.】
~Patient's Voice in Japan

In the outpatient clinic, the patient said,
"The doctor I met so far did not talk to me looking at my eyes."

"I do not seek much
expert knowledge
Human-like treatment
that it was what I wanted.

I'm not coming to talk to the robot."

Pt's Voice000:死を迎えても言葉は生き続ける

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今週から「Pt's Voice」という連載を始めます。
Pt's Voice=ペイシェンツ・ボイス、つまり「患者の声」です。

私はこれまで3000人を超える方の生死に関わらせていただき、その方々が人生にかけた思いを見てきました。
もちろん、その中にはもうこの世にはいらっしゃらない方もいます。
それでも、その方々が遺した言葉は、今でも私の中にあります。

しかし、私もいずれは老い、何らかの病を得、そして死を迎えるでしょう。
そのときに、その患者さんたちが遺した言葉も消えてしまうのでしょうか。
そう思うと、私はこのデジタルの世界に、この言葉たちを記録しておきたくなったのです。

有名人の言葉は時を超え、後世に語り継がれ、その言葉は死ぬことはありません。
一方で、その人生を懸命に生きたひとりひとりの言葉も、その言葉に負けることがない輝きを持っています。
それらの言葉の生を引き継いでいくために、記録を残していきたいと思います。

これらの言葉が、多くの方々へ届くことを期待しています。

(登場する患者さんの状況は個人情報保護のため大幅に設定を変更しています)

医者になるには、という話(後編)

前回の記事で、ヘクトパスカルのせいで見事、志望校(前期試験)を不合格となった私。
いつまでもくよくよしていても仕方がないので、予備校の入学手続きと、一応後期試験の準備を始めた。

前期試験で100%受かる気満々だったので、後期試験は受けるつもりがなく、なぜか「D判定(下から2番目)」で、「志望先の再考を検討してください」と書かれた、元々の志望校へ願書を出すという無謀なことをしていた。
偏差値で言えば10以上も上の医学部で、前期試験で不合格になっている自分が行けるはずがない。
しかも、その年の倍率(定員に対する志望者の数)は36倍。つまり10名の定員に360人が応募するという、何かのオーディションですか?というレベルの倍率。
しかも受けている方々は「東大受けたけど落ちました」とか「慶応に行きたかったけど、安全策でランク落としてこっちにしました」みたいな、「前期試験のすべり止めで、より低いランクのこの大学受けてます」という方々ばかり。
私のような「前期試験に落ちて、後期試験はなぜか偏差値10以上も上の大学を志望しました」みたいな逆転現象バカは肩身が狭かった…。

しかし、ここで一発逆転のチャンス!
この後期試験には「面接」があり、試験では差がつけられないと感じていた自分は、ここで差をつけるしかない!と考えたのである。
面接官は3人(もちろん教授)。
何を質問されて、どう答えたか、その内容は正確には覚えていないが、とにかくテンションだけは高めで臨んだ。
そして、「教授たちが多分こういう答えを期待しているんだろうな」という模範解答ではなく、世間一般の常識に疑問を投げかける形で、持論を展開した。そうしなければ、360人いる受験者の中で、自分に目を止めてもらうことなんかできないから。
そして最後に
「医学部に入って、医学をめちゃめちゃ勉強したいんですよ!」
と言ったときの「おー」という教授たちの表情が忘れられない。

その面接が良かったのか、結果的に私はその大学に合格した。
でも、合格証を受け取った時の正直な感想は「合格した実感がない」だった。
ちなみに私は中学から受験を経験しているが、実質的に筆記試験のみで合格したというのはその中学の時だけで、高校は推薦入学だったから面接で合格しているし、大学もなんだか「試験で合格した」という感じではない。
あれだけ大量に勉強に時間を費やし、受験…

医者になるには、という話(前編)

こんな話に興味があるのかと思うわけだが、興味がある人がいるというのだから面白い。

そうはいっても、自分は「よくありがちな」医者のなり方はしていないから、受験生のお母さんなんかが読んでも参考にはならないだろうことはお断りしておく。

そもそも、医者になろうと思った動機が、
「仲の良かった友達が医者になりたいと言っていたから」
という、
「みんなそのおもちゃ持っているから僕も欲しい」
的な、小学生感丸出しのノリ。
この話をするたびに周囲の方からがっかりした顔をされるので、もっと「人のために役立ちたい」とか「子供のころ助けてもらった先生にあこがれて」とか、そんな感動エピソードでも捏造したいくらいだ。
そうはいっても、高校生になるころには一応医学部を目指して勉強に励んでいた。

ここで、「どれくらいの時間を勉強したんですか?」とよく聞かれるが、あまり聞かない方がいい。
まず、朝7時に起きて登校まで勉強。
登校してから、基本的には授業は聞かずに自習、そのまま休み時間も自習、昼ご飯を食べながらも自習、放課後も自習。
で、家に帰ってからも勉強机に向かい、夜は塾。そして眠るのが11時くらい。
もちろん、日によってこんなに勉強しない日もあるが、長い時だと1日12時間くらいは勉強していたと思う。
高校3年の時には付き合っていた彼女もいたのだが、デートは下校時に彼女の家までの30分くらい、そして土日は「図書館で勉強しながら一緒に過ごす」という、今から思えばちょっと異常なお付き合いだった。

これだけ勉強していたのだから、さぞ成績も良かったのだろうと思われるかもしれない。
でも現実はそんなに甘くはない。
地元では成績はトップだったものの、全国模試ではランキングにも載らないほどの「中の上くらいの成績」だった。志望する医学部の合格判定は常に「D判定(下から2番目)」で、「志望先の再考を検討してください」と書かれる始末だ。
「人間、努力すれば何でもできる」と言うかもしれないけど、そこまで現実はマンガみたいにはできていなくて、生まれつきのスペックというものは確実にある。
その中で、努力することはもちろん必要だけど(努力しないと自分の限界もわからんから)、努力すれば結果が100%ついてくるわけではない。

じゃあ、私はどうしたか?
はい、全国模試合格判定のご指導に従い、志望校のレベルを下げさせて頂きました…

生と老と病と死のワークショップ

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「生と老と病と死のワークショップ」
名前だけ聞くと、「なんか怖そう」「宗教なんじゃない?」と思われるかもしれませんが実際には、
話して、
笑って、
ちょっとだけ涙する。
怖くはないけど、感情が大きく揺さぶられる体験をするのは確か。

今回は申込が殺到し、開催1か月以上前にチケット完売。
申込をお断りをしなければならないほどの盛況ぶり。


生と老と病と死のワークショップでは、生老病死の疑似体験から、自分の価値観を見つめていこうという試みですが、ここに「正しい答え」はありません。
私はナビゲーターとして私なりの考えや、皆さんが考えるヒントを提供しますが、私が言っていることは私の価値観ですし、それが皆さんと違うのは当たり前です。
そして、途中に何度かグループ内で対話をする時間があるのですが、そのメンバー個々での価値観が異なるのも当然で、その異なる価値観が出会うことで、新たな価値観を得ようというのがこのワークショップの醍醐味です。

参加した方々からは
「皆さんとのディスカッションで豊かになれた」
「対話により感情が揺らぎ、とても温かい気持ちになれた」
「グループ内で自分の考えの無意識的な部分を指摘されてハッとした」
という意見も。
参加するごとに、そのテーブルに座った方々との関係性で、得られるものが変わっていきます。
私は、これは単なるワークショップではなく、アートと考えています。
こういった、人との関係性から作られるアートのことをリレーショナルアートと呼びますが、このワークショップで得られるものはまさに、自分にひとつだけの作品です。

「生老病死」について、普段は考えたこともないかもしれませんし、ましてや他の人と対話するなんて経験もそうそうできるものではありません。
今回、参加者の方々から頂いた意見をもとに、またブラッシュアップしていきますので、ぜひご参加ください~!

****************
次回は2/25(日)に開催予定です。
募集は12月になってから開始しますので、少々お待ちください!

※法人・団体様向け「生と老と病と死のワークショップ」の御案内
・内容:法人・団体様の御都合に合わせて、任意の曜日・時間で設定が可能です。当法人から医師、看護師などスタッフを派遣しますので、候補日をいくつか頂き、こちらから派遣可能かについて打ち合わせを行います。まずは「お問い合わせ…

超福祉展が描く未来

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今年も、「超福祉展」行ってきました。
 超福祉展とは、


障害者をはじめとするマイノリティや福祉そのものに対する「心のバリア」を取り除こうと、2014年より毎年11月の一週間、渋谷ヒカリエを中心に開催を続けている展示会です。
思わず「カッコイイ」「カワイイ」と使ってみたくなるデザイン、大きなイノベーションを期待させてくれる「ヤバイ」テクノロジーを備えたプロダクトの展示・体験に加え、従来の福祉の枠に収まらない魅力的なプレゼンターたちが登場するシンポジウム、多彩なワークショップなど、さまざまな企画を展開してきました。。
(公式Webサイトより http://www.peopledesign.or.jp/fukushi/
という企画です。
 今年で4回目を迎えるとあって、メディアの注目度も高く、既に多くのレポートや報道が出ていますね。
 超福祉の定義はこう。
一人ひとりの心の中に存在する、障害者をはじめとしたマイノリティや福祉に対する「負い目」にも似た「意識のバリア」。 “超福祉”の視点では、従来の福祉のイメージ、「ゼロ以下のマイナスである『かわいそうな人たち』をゼロに引き上げようとする」のではなく、全員がゼロ以上の地点にいて、混ざり合っていることを当たり前と考えます。ハンディキャップがある人=障害者が、健常者よりも「カッコイイ」「カワイイ」「ヤバイ」と憧れられるような未来を目指し、「意識のバリア」を「憧れ」へ転換させる心のバリアフリー、意識のイノベーションを“超福祉”と定義します。 (公式Webサイトよりhttp://www.peopledesign.or.jp/fukushi/
「超福祉」の世界では、 単に健常者が障害者を支える、というイメージではなく、障害がある部分をテクノロジーが補完し、健常者と同等もしくはそれ以上の能力を有することだってあるわけです。
 また、これまでは障害のある方が使う道具だった、車椅子や補聴器なども、この超福祉の世界では、誰しもが普通に使う世の中になる。
「あれ、なんでお前今日は車椅子使ってねーの?」
と、「なんで今日メガネじゃねーの?」と同じようなノリで会話がされる。ここではもう、足が不自由な人と、そうでない人の境界はない。思えば、メガネだって昔は医療器具として、それを使っていること自体が恥ずかしく、分断を招くツールだったけど、今では…

polcaによる暮らしの保健室支援

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今月から、「polca」を利用した、暮らしの保健室への支援金募集を試験的に開始しています。

polcaで暮らしの保健室を支援する →https://polca.jp/projects/5ozCwJ4FEDm

「polca」は、クラウドファンディングでおなじみのキャンプファイヤー社が提供する、フレンドファンディングアプリ。
 クラウドファンディングと比べて、大人数へ訴求するツールではなく、またリターンも簡易なもので良く、支援金も500円など少額で設定できるので、企画者も支援者も手軽に始められるというメリットがあります。また、2017年11月の現時点では決済・振込手数料とも無料なのでその意味でも気楽です。

 今回、このツールを取り上げたのは、暮らしの保健室運営への資金集めをしたいこともありますが、もうひとつは「このサービスを多くの仲間たちに知ってほしいと思ったから」。
 特に医師は、「マネーリテラシーが低い」と一般的に言われていて、なんでかなーとは思うんですけど、自分もそうでしたから否定できない…。

 polcaが使えるシーンとしては例えば、
 ちょっとした企画を行いたいのだけど、数千~数万円が足りない…というとき。クラウドファンディングを行うにしては大げさ。

 そんなときにpolca。

 仲間内でのイベントのお金を事前決済したいなあー。振り込みだと面倒。

 そんなときにpolca。

 といったように、これまでお金のやりとりをするのに面倒だったり手数料が発生する部分を全部なくしたサービスがこのpolca。実際に、このサービスを利用して、多くの方々が興味深い企画をどんどん立ち上げています。
 是非みなさんも、このサービスを知って頂き「お金がなめらかに動く社会」を感じてみてください。

※私自身はキャンプファイヤー社に対していかなる利益相反もありません。

*********************************
暮らしの保健室の運営のため寄付のお願いをしております。

polcaで支援する →https://polca.jp/projects/5ozCwJ4FEDm

BitCoinで支援する →3BEQPRZHw4xHVPoGooCn1T469yJ53iHr7w







振込で支援する →
銀行名 横浜銀行
支店名 元住吉支店
口座種類普通
口座番号6061945
口座名義シヤ)プラスケア

シェア金沢に、行ってきた

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一般社団法人プラスケアでの研修旅行で、「シェア金沢」に行ってきました。
 シェア金沢とは、「日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community)」と呼ばれる場所。
 CCRCとは、高齢者が入居し、元気な方も介護や医療が必要になった方もみんなで支え合いながら過ごすことが出来るコミュニティの事を指します。しかし、シェア金沢は、高齢者限定ではなく、学生や障害をもった子供たち、またそのエリア以外の方々とも交流することを想定した「ごちゃまぜの町」です。


 訪れた日はあいにくの雨でしたが、小雨になると町の方々が出てきてくれたりして、ここでの暮らしぶりを伺うことができました。
 シェア金沢の中には、温泉があったり、マルシェがあったり、ジャズバーがあったりして、それぞれの場所で多世代が集まって思い思いに時間を過ごしていました。雰囲気的には、大きな家族、みたいな。そのように、たまり場ができてコミュニケーションが自然と生まれる仕掛けが町の中に多くデザインされていることが大きいのでしょう。
またある場所では、子供が大人にギターを教わっていたり、高齢者が売店の店主をやっていたり、美大の学生がカフェの窓に作品を描いていたり、障害をもった方がアルパカを散歩させていたり。誰もがこのまちのアクティビティに「参加」している。このまちでは誰も、「お客さん」ではない、という雰囲気が感じられました(実際にはそうでない方もいるでしょうけども)。実際、ここに入居する学生さんは、家賃が減免される代わりに、月に30時間のボランティア活動をしなければならないのだとか。

高齢者や障害者の方々と暮らす町を作る、というと、どうしても「健常者の側が、弱者である方々を支援する」というだけの発想になりがちです。もちろん、支援も必要なのですが、明確に「支援する側」と「お客さん」に分けるコミュニティが果たして誰にとってもよいコミュニティといえるでしょうか。
 誰しもが、そのまちの活動に参加することができ、そのまちで「役割」を果たすことができる。それを実現するためには、単に「意識を変えていきましょう」と声かけをするだけではダメです。シェア金沢のように、町なかに散りばめられた様々な仕掛け、デザインが重要であり、また今後の技術革新を大いに取り入れていくことで、どんな多様な個性を持っていたとして…

宗教を忌避していると、結果的にカルトにはまる?

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最近
「宗教みたい」
と揶揄される事態が多く発生したので考察。

例えば画像にある「生と老と病と死のワークショップ」。
色々なところで宣伝させてもらったが、一定数で「それって宗教系?」と怪訝な顔をされる方がいらっしゃる。



まあ、実際に参加されればわかると思うんですけど、
宗教か宗教じゃないかと言われれば、

これは宗教ですよ。

日本は「宗教」といったときにイメージが悪すぎるんですよね。
恐らく、20世紀末に流行ったカルト系宗教なんかをイメージしているんでしょうけど。
多くの患者さんに「信仰されている宗教は?」と尋ねると90%の確率で「ありません」と答えられますしね。中には「信仰?宗教なんてとんでもない」と全力で否定される方もいますし。


でも、実際に人間が宗教なしで生きていけるかっていうと、それはないと私は思っているんです。
これはもちろん宗教の定義によるけど、宗教の定義自体、宗教家の数だけあると言われているくらい確たるものはないみたいで。
ある定義では、「超越的なものに対する信念」とされているので、それで言えば、科学だって宗教だし、医師はシャーマンのようなもの。最近だとAIを信仰する宗教なんてのも出てきているし、決して神とか教祖を信じることだけが宗教ではない。そもそも「本尊」のような対象を信仰するのではない宗教だって世の中にはあるしね。

「生と老と病と死のワークショップ」は対話を中心としたアートなので、私が教祖のように何かの教義を押し付けるような場ではない。
でも、それによって自分の人生と向き合うという体験は、間違いなく宗教に通じるものだと思う。
信じるものがなければ、人は生きていけない。その対象は、自然でも科学でも自分自身でも、もちろん神でもいい。
宗教が必要がないと言っている日本人は、実際に自分が危機的状況に陥った時に慌てふためいて「本尊」を探し求めるから危ないと私は思っている。
それこそカルト宗教的なものにはまってしまうんじゃないかとね。

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剥き出しの個人

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先日、「現代の魔法使い」落合陽一さんの番組を見ているときに「日本が再興するためには、西洋的思想からの脱却が必要だ」という言葉があったんですね。
明治維新をきっかけに、新政府の樹立、そして欧化政策の推進によって日本に西洋思想がどっと入ってきて、さらに戦後にアメリカの思想が混じることで、日本が本来持っていた特性が失われてしまったということ。そのために、日本全体がぐちゃぐちゃになってしまっていると。
自立した個人ではなく、孤立した個人になっている。
だから、日本を再興するという時に、ヨーロッパやアメリカの何かを参考にしようという視点から、日本人にはそもそもどういう社会・思想構成が最も合っているのか、という考察を始めなければならない、と言っています。

これは、自著でも考察したことですが、日本人は少なくとも「神」を唯一絶対とし、それと対峙する自我としてのキリスト教的文化圏の価値観とは大きく異なる、先祖や自然とのつながりを重視した儒教・仏教・神道などが習合した形での宗教観を、儀礼としては失われていても、生活・観念レベルまで浸透させる形でもってきた民族といえます。
しかし、近年においては、西洋的な自由主義・個人主義の浸透や、旧来の「イエ」や「ムラ」制度の喪失から、生活習慣レベルで残っていた様々な宗教的営為までも徐々に失われつつある中で、現在の日本は、伝統的な「日本人」としてのメンタリティと、西洋的な自由主義個人主義的価値観が、社会的にも個人的にも混在している状態といえます。

そのため、「イエ」「ムラ」を基盤とした家族や地域間の紐帯にその思想的基盤を頼むわけにもいかず、宗教的基盤を持ち出すことも難しく、かといって西洋の価値観だけに寄ったような意思決定を行うことも一律にはできません。言うなれば、イエ・ムラや宗教といった「自分を守る鎧」としての枠組みが弱くなってしまった現代の日本人は、裸同然の「剥き出しの個人」として社会と対峙しなければならなくなりました。

これからの日本においては、宗教性の減退や家族の解体はよりその歩を進め、地縁としてのコミュニティとの繋がりも希薄となる社会へと向かっていく可能性はあります。もちろんそのようにならないことが理想ではありますが、少なくともこれまで日本人なら常識的に利用可能と考えていた前提としての「信仰」や「家族やコミュニティの繋がり」なども、その形が変…

モノシステムからマルチシステムへ

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皆さんこんにちは。
今日は、「モノシステムからマルチシステムへ」という話。
要は、医師‐患者関係という単一の関係からの患者の解放というお話です。


これは、図にも示したんですけど、少なくとも20世紀後半から2010年くらいまで、「医師と患者はマンツーマンの関係」というのが、患者側にも医療者側にもあったんですよ。

それが「チーム医療」という名の下に、患者も含めて看護師や介護士や薬剤師など他の職種も全員でチームを組んでやっていきましょうというのが提唱されてきた。
でも、実質的なリーダーは誰か、というと大体の現場では医師がそのリーダーを担っていて、他の職種は医師に指示されるがままに動いている「チーム」なんていうのもたくさんある。そして外来を持っているのもほとんどは医師だから、結局のところ「医師-患者関係」というのが最も重要な関係性となることは構造的に当然なわけ。

これが、いわゆるモノシステムの世界で、もちろんその医師が優れた名医であれば問題ないんだけど、多くの患者は医師を選ぶことはできないわけで、場合によってはこの医師‐患者関係に患者がしばられてしまって、苦しい関係性から抜け出せないという場合も多々ある。
「主治医の先生と上手くいかない、私の気持ちをわかってもらえない」
なんていうのはよく聞く話。
医師の方が一般的に多くの情報や治療方針決定についての権限を持っているため、患者は自分の体のことにも関わらず、相対的に弱く脆い立場におかれている。

この問題を解決するために、これからはマルチシステムの採用が主流となるし、そうしていくべき。
マルチシステムでは、医師‐患者という単一の関係性から、その医師とは利害関係のない第三者の介入が入ることで、患者や家族がエンパワメントされ、対等な医師‐患者関係を築いていこうというもの。
例えばうちらが取り組んでいるプラスケア(暮らしの保健室)の機能はまさにそれ。
暮らしの保健室を利用することで、病院ではできない情報整理を行ったり、診察室への看護師同行などを行うことも、そのマルチシステムの一環ということ。
病院内の看護師や相談員でも、もちろんこの役割を果たすこともできるんだけど、組織に従属している意識だと、患者・家族側に立てない(利害関係がある)からマルチシステムにならない。時には組織や医師に反抗しても、患者・家族側に立つ勇気があるかが問われるわ…

「希望」とは何か

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みなさんこんにちは。

今日は「希望」について少し考えてみたいと思います。
 「希望」といっても、昨今ニュースを騒がせている「希望」の話ではないです。

 今回取り上げるのは
●効果未確認の免疫療法 12の拠点病院が実施
というNHKのニュースについて。
要は、国ががんの標準治療を日本全国どこでも受けられるように整備してきた「がん拠点病院」で、科学的に効果も安全性も確認されていない免疫細胞療法が、患者さんの自費診療として行われていたのが問題ではないか、という内容です。
結論から申し上げますと、こういった治療法を「臨床試験以外の方法」で行うことは倫理的に問題があり、行うべきではないということは明白です。ただ、今日私が取り上げたい点はこの点ではなく。

このニュースの中で、免疫細胞療法を擁護する側の言葉として、
「この治療を受けていることが心の支えとなる」(患者さん)
「患者が希望しているから」(医師)
というものがあります。

こういった論点は、免疫細胞療法だけではなく代替療法や、また明らかに適応外の抗がん剤治療を行う時などに必ず出てくるものです。
要は
「患者が治療を希望し、医師がその希望に応える」
そのどこが悪いのか?ということです。


●「希望」とは何か?

そもそも「希望」って何なんでしょうか?
これはこの数年くらいずーっと考えているのですが、言葉にするのはなかなか難しいです。
でも、ひとつ言えることとしては、患者さんにとって「治療そのものだけ」が希望、ということが大多数に当てはまることなんだろうか?ということ。
その治療を通じて、家族と変わらずに暮らしたいとか仕事を今まで通り続けたいとか、色々な希望があるはずで、本来こちらの方が「真の希望」と言えるものなんじゃないかな、と。そうであれば、抗がん治療を続けることだけが、その方の希望を支えることに本当になるんだろうか?ということになります。
ほとんど効果のない(場合によっては有害な)抗がん治療を続けるのと、それらを止めて緩和ケアに専念をするのと、結果的に生活が何もかわらない(もしくは緩和ケアを受けたほうが良くなる)のだとしたら?
それでもとにかく抗がん治療を受けることに固執される方がそこまでたくさんいるかどうか…。
そういった話し合いを、本当にとことん現場でやっているのだろうか?という点が疑問です。

もちろん、中には「抗がん治療…

「あとどれくらい生きられるのですか?」と聞かれたら

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拙書『「残された時間」を告げるとき~余命の告知Ver.3.1』が発売されてから2ヶ月ほどたちましたが、
「こういったことを解説してくれる本がこれまでなかった」
「患者さんと、こういった話をどうしていけばいいかわからなかったので参考になる」
「困っている部下や同僚にも読ませている」
といった感想を頂いています。ご好評いただいているようで何よりです。
※ご購入はこちらから⇒http://amzn.asia/cZ3ELp0

さて、「この本はどうやって作ったんですか?」というご質問を時々頂きます。
前著『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』については、まず出版社から企画の提案があり、それに従い執筆をしました。『緩和ケアレジデントマニュアル』についても基本的には同じ手順です。
一方で、この本は私が企画立案し、草稿を作って出版社へ提出した「持ち込み企画」です。それほど、この本には「多くの方々へ伝えたい」メッセージが込められています。

ただ、本を読んでもらえなければその伝えたいメッセージも伝わりません。
そのために、今回私がとった戦略が「マンガ」であり、その無料公開です。
マンガの持っている訴求性は、文字に比較して強い印象を読者に残しますし、仮に本屋でパラパラと立ち読みしてもらうだけでも、臨床現場への影響を与えられることを意識してシナリオを作りました。
私の細かい要求に逐一応じてくださった、漫画家のこしのりょう先生には本当に感謝しています。

ぜひ、1例目と2例目のマンガと、今回公開する3例目を比較して読んでいただければと思います。
1例目はこちら
2例目はこちら


『「残された時間」を告げるとき~余命の告知Ver.3.1』がいよいよ発売!

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『「残された時間」を告げるとき~余命の告知Ver.3.1』がいよいよ発売されました!
アマゾンでの販売サイトはこちら→  http://amzn.asia/4fWNZ1V

実際、がんや高齢者医療に携わっている医療者であれば「あと、どれくらい生きられるのでしょうか?」という質問は、患者本人や家族からしばしば問われるでしょう。
これまでは、その「問い」に対して個々人の経験からの中で試行錯誤したり、同僚医師のやり方を真似ることで対応せざるを得ませんでした。「余命をどのように伝えるべきなのか」について、国内で書かれた参考書はほとんどなかったからです。
海外の教科書には、記述がありました。しかし、その内容は必ずしも日本人にもそのまま当てはめられるものとは感じられませんでした。
なので私は、海外でのエビデンス、そして近年研究されつつある日本でのエビデンスをまとめつつ、日本古来からの文化や死生観を併せて記述することで、日本国内でも通用する「余命の告知」の方法をまとめたいと思ったのです。

伝え方がわからない、どのように伝えても患者を傷つけるだろうことには変わりない…それであれば「余命を伝えるべきではない」と考えることにも一理あります。
実際、私自身がそのように考え、そのようにしていたこともありました。
しかし、そのコミュニケーションでは、明らかに満足いかないという表情を浮かべる方々が数多くいました。
その時思ったのです。「患者さんたちはどうして知りたがっているんだろう?」と。

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症例:斉藤隆史さん(52歳 男性) 斉藤さんは都内の大手商社で部長職を務め、大きなプロジェクトを数多く動かしてきました。しかし、2年前に胃の不調を訴え、近医で胃カメラを施行したところ、胃癌の診断となりました。
近隣の総合病院で手術を行いましたが、1年前に腹膜転移にて再発と診断されました。その後は腫瘍内科を紹介され、抗がん剤治療を受けることに。しかし副作用も強く、薬剤の減量や変更などを行いながらなんとか続けてきましたが、「副作用のため仕事に集中できない。私にとっては今の仕事を続けられることの方が大切なのです」と、抗がん剤治療を断念。その後は地元の緩和ケア医を紹介され、通院を継続しながら会社にも通勤していました。幸いにも、がんに伴う…

「余命の告知」についての書籍を発売します!

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「自分があとどれくらいの時間をこの世で過ごすことができるのだろうか」と考えたことがある方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。一度くらいは考えたことがある方はいらっしゃるかもしれません。しかし、それを日常的に考えながら過ごしている方となれば、数はぐっと少なくなるでしょう。

そこで、想像してみてほしいのです。突然あなたの前に現れた誰かが「あなたに残された時間はあと3か月です」と告げるということを。その時あなたはどのように感じ、そしてそれを告げた人物に対し、どのような感情を抱くであろうかということを。

「余命を伝える」ということは、医師にとっても難しいコミュニケーションのひとつです。
それにもかかわらず、それを学ぶ場というのは限られており、医師は日々試行錯誤しながら、患者さんや家族との対話に臨んでいます。

そこで今回、青海社さんから
大切な人に「残された時間」を告げるとき -余命の告知Ver. 3.1
というタイトルで、本を出版する運びとなりました。新城拓也先生、吉田沙蘭先生、武見綾子さんをはじめ、多くの方々にご協力いただいてできた本です。
6月頃に刊行の予定ですが、今回は作画を担当頂いたこしのりょう先生、青海社さんの御厚意で、書籍内のマンガ部分を特別に事前公開いたします!
ちなみに、このマンガは3部あり、残りの2部についても随時公開していく予定です。