2013年3月24日日曜日

「待合室から医療を変えようシンポジウム」

本日、東大で行われた「待合室から医療を変えようシンポジウム」に参加してきた。

これは、全国の医療機関にある「待合室」30万カ所を、数が多いだけでなく社会的に信頼できる空間であるところの「有効な医療資源」と考え、しかも待合室ではある一定の時間を強制的に過ごさないとならないわけであるから、その「待たされる」マイナス面ばかりを強調するのではなく、発想の転換によりプラス面を引き出すことがミッションとされている。

全部で4時間のシンポジウムだったので、全内容をここに書くことはできず、印象的だったことのみを抜き出して記録する。

最初の演者は、東大病院も設計された建築家の岡本和彦先生である。
岡本先生の講演では、建築設計がもつ可能性に触れつつ、しかし待合室については建築学の教科書でも半ページ~1ページくらいしか割かれていない事実に触れ、そういった中でどのような研究がされてきたか、ということについて話して頂いた。建築でも、医療でのEBMと同様EBD(Evidence Based Design)という用語があり、研究に基づいた設計がされているのだという。
待ち時間や患者さんの動線、診察に行き着くまでの手間などを省くことが、ムダの排除につながるが、医療機関ではこれらを排除しようとすると経営そのものに関わる問題にもなり、中々難しいのだという(例えば、動線を短くする=廊下を短くする=病院の規模縮小、待ち時間を減らす=診察ブースを増やす=医師確保の困難、人件費増)。
中待合はまったく日本独自の仕組みで、徐々に診察室に近づいていく心理的配慮や、中待合で次の診察の準備をしてもらうことでの時間短縮の効果などがある。
最近のデザインでは、病院の敷地内を住民が通り抜けられるようにして、その周囲にパン屋や保育所を設置する例や、フードコートやスーパーマーケットを設置する例、病院の回廊自体をギャラリーにするなど、病院内に患者さん以外の方を取り込むような仕組みも多いのだという
窓から見える景色がレンガの壁か緑の木々か、で病後の回復が異なる可能性を示唆する論文から、少なくともナイチンゲールが示したように「病院が害をなさないように」デザインするのが大切と言っていたのが印象的であった。

病院図書室司書の石井さんの講演も、印象的であった。
町の本屋さんから、病気に関する本を買ってきて、ただ同じように陳列するだけでは、リテラシーは上がらない。それでは患者図書室とは言えない!」
とのお言葉に、自分もその業務に一部関わっている関係上、ちょっと耳が痛かった。
患者さんに役立つ本棚にするためには、専門的な医学書だけでも、家庭の医学の本だけが置いてあるだけでもダメ。それらはあくまでも、生物学的な断片的な情報であり、自分の生活の行く末を示してくれるものではないからである。患者さんは、初めてかかる病気について、「先行きが見えない」不安を抱いているわけであり、病気と生活に対応する情報源にアクセスできるよう、工夫が必要である。
そのひとつが闘病記であるが、闘病記も、タイトルによっては何の病気の本なのかわからないものが多く、きちんとそのような情報にアクセスできるように、こちら側が整理する必要がある。

カフェを中心に病院を、と訴えた鈴木さん(みのりCafe店主、患医ねっと代表)の講演も耳が痛かった。
病院には各種チェーン店のカフェが入っていることが最近多くなってきたが、カフェの店員はあくまでもそのカフェのことしか知らず、また、「患者のための病院」であるはずなのに、注文は全て横文字、そしてセルフサービス式で「自分で飲み物を席まで運べ」というのはありえない!と声を上げていた。
言われてみるとその通りで、病院を利用している方の多くは高齢者であることを考えると、もっとサービス面で独自性を出してもいいだろうになあ、と思ったのである。せめて、病院内のコンシェルジュ的な役割を果たしてもらうことくらいは期待してもいいのかもしれない。
鈴木さんの考える「カフェを中心とした病院」のコンセプトも、とても心躍るデザインであり、何か一緒にできることはないかなあ、とワクワクさせられるものであった。

他にも、医師の花木先生、電通の増田さん、日経メディカルの山崎さん、栄養士の前田さん、メディキャストの大西さんからも非常に興味深い、「待合室の可能性」についての講演があり、あっという間に4時間が経過した、という印象であった。

私の中で、今回得られた気づきをまとめると
・待合室は決して「順番を待つだけの」場所ではないと考えた方が良い
というのを大前提として、
・待合室をどのようにデザインしても、全員にとって100%満足なコンテンツは提供できないと考えた方が良く、多様なコンテンツ・個別性(自由度)の高いコンテンツをどれだけ提供できるかがカギである。
・待合室にいるのは患者さんだけではなく、ボランティアさんやサービスの方々、地域住民もいて良いし、医療者もまたその中に積極的に出て行くべきである(双方向性のコミュニケーション)。
・待合室はまだまだ未開発の部分が多く、ビジネスの芽が隠れている可能性が高い。

今後も、今回の活動は「待合室学会」として発展していく可能性を検討しているとのことである。
是非、全国での活動の発表の場として整えて頂き、待合室もそうであるが病院内の売店やカフェも含めたアメニティ機能を高めていく活動を広げて頂くことを期待する。

2013年3月17日日曜日

医療者の傲慢~医療者と住民が対話するために?

 昨日、みんくるプロデュース・empublic主催の公開シンポジウム「住民と医療者が、ともに地域の医療を育てるために何ができるか?~対話へのアクション・プランを考える」に参加してきた。

 内容は、千葉県東金市のNPO「地域医療を育てる会」の取り組みの発表、パネルディスカッションを経て、では「住民が地域医療に求めることは?実現に必要なことは?」というテーマで、参加者ごとにカフェ型トークをしよう、ということになった。
 カフェ型トークとは、テーブルごとに数名で決められたテーマについてフリートークを一定時間した後、ファシリテーターを除く参加者が、他のテーマのテーブルに移り、そのテーブルで行われたトークを振り返った後に、再度新たなトークを付け加えていく、といった形式(それを繰り返す)。

 最初に座ったテーブルで面白かったのは、ある医療職の方だが、いきなり「そもそも私、『地域医療』って言葉、嫌いなんだよね!」から始まり、そもそも地域医療って何だ、なぜ「地域医療」という言葉が嫌いなのか、といったところで盛り上がったことである。
 そこで得られたものは大きかった。なぜなら、自分もこのテーマに違和感を感じていたからである。地域医療に多くの住民を巻き込む必要がある、というのはこちらのニーズだが、それはそのままでは地域住民のニーズにはなり得ないのではないか、そもそもそれを「ニーズとして認識させよう」といった考えそのものが「医療者がいかにも考えそうなこと」ではないのか、という違和感である。

 最近、「医療職と一般の方が、診察室を出て、カフェのようなリラックスした雰囲気で同じテーブルにつき、トークをする」といった取り組みが全国的に注目されており、メディアでも取り上げられている。
 もちろん、こういった取り組みは大切なことだし、面白いと思う。特定の目的にとっては有用である面も多いだろう。
 しかし、「対話の場」として、それはふさわしいのだろうか?という違和感はぬぐえない。
 そこに参加している一般住民の方は、やはり元々何らかの疾患を持っていたり、家族や知り合いに病気の方がいたり、といった「元々関心の高い参加者層」が多いのではないか。そうなると、それは一般市民、というくくりというよりかなり偏りのある集団でフローしているに過ぎず、それだけをもって一般市民との対話がなされている、と考えるのだとしたら違うのでは、と思うのだ。

 そもそも、医療者が主催すると必ず健康や福祉、といった類の話になるが、それでいいのか、という思いもある。「地域医療集会」とか「市民公開講座」、などを企画しただけで(もちろん情報提供などの目的では重要な意味もあるが)、地域住民と交流を図ったつもりになっているのだとしたら大きな間違い。そもそも「医療職と市民が」というテーマ自体が違和感だ。それこそ、医療者が自分たちの仕事を特別だと思っている証拠じゃないのか、と。「八百屋と市民が」なんてテーマの集会なんて聞いたことがないだろう。
 医療職なんて、別に特別な仕事ではない。こちらに意識下にでもそういう気持ちがあるから、これまで壁が作られてきたのではないか。市民を本当に巻き込んで色々と活動していきたいのであれば、そもそも自分も市民の一人なのだから、医療職という立場を離れて、もっと地域に入っていけばいいのではないか。警察官の●●さん、八百屋の○○さん、主婦の××さん、と医師である自分、何も違いはない。従事している仕事が違うだけだ。まず、地域の方々が何をしているのか?というところに興味をもって、入っていくこと。自分たちがやっていることよりももっと面白いことをみんなは考えているよ。

 そもそも、典型的な「医療者」の考える企画は説教くさい。テーマが必ず「健康と○○」「○○の予防」「死と○○」とか、そんなのばかりじゃ元々関心が高い人しか来ないのではないか?真面目くさくて、オシャレじゃない。そのようなテーマを設定したがるところにこそ、医療者の傲慢があるのではないか?住民は健康について興味を持つべきだ、私達が予防について導いてあげないと、とどこかで思っていないか。普通の市民が、そんなに「健康」に関心をもってくれるとは思えないのだけど。

 私達の求めるアウトカムは何か?それを達成しながら楽しめる企画はできないのか?
 例えば、地域の方々にもっと歩いてもらうことで健康度を上げてもらいたい、と医療者側が思っていたとする。その場合、典型的な医療者が考えることは「まちを歩いて健康に!目指せ1万歩ツアー!」を企画することだったりする。しかし、それをちょっと変えて「まちに隠れる○○を探しましょう!写真を撮って景品ゲット!」とかに変えるだけで、参加者はより増えるだろうし、楽しげで説教くさくない。それでいて、どちらも町を歩くことには変わりないのだから、私達の求めるアウトカムも得られている。あくまで健康を意識してもらわないとならない、と考えているのなら、それこそが傲慢だろう。気がついたら、地域が健康になっていた、というのは理想に過ぎるだろうか?

 医療者は、もっと謙虚にならないとならない。
 医療者であるという前提を捨てよ。市民であるという意識を取り戻せ。私達は、求められたときだけ、医療者としてプロであればいい。
 話を聞いてもらうにしても、「井田病院の西先生」よりは「何丁目に住んでる西さん」の方が聞いてもらいやすいんじゃないか?ついでに酒でもあればサイコーだね!

 
 逆転の発想だが、みんながともに地域の医療を育てるには、それが一番の近道なのではないかという考えを再認識した(少なくとも自分の住む地域においては)。それに気づかせてくれた昨日のシンポジウムは、自分にとってとても有意義なものであったと思う。本当に感謝したい。
 
 
 
 
 
 
 

2013年3月7日木曜日

患者から、逃げない

最近、自分が講演をするときに必ず入れる言葉。

「患者から、逃げない」

緩和ケアでは、まずこの心構えを持つことが、とても大切なことだと思っている。

医師が、患者から逃げる?
そんなこと、あるわけない、と皆さんは思うかもしれない。
それは一部の、いわゆるモンスターペイシェントとかいうのの話しだろう、と思われるかもしれない。

医師の側も「私は患者から逃げたことなど一度も無い」と言われるかもしれない。
ええ、そうでしょう。
確かに、いつも皆さんは真摯に、患者さんに向き合っているでしょうね。

でも、真摯に向き合うからこそ、患者さんから逃げている、少なくとも逃げたくなる経験はだれだってあるはず。
予後数日、昏睡状態の患者、心配して付き添う家族。そんな病室に、足が遠のいた経験が、きっとあるはずなんです。
行っても、何もできない。家族には「先生、どうなんでしょうか」と真剣に問われる。でも、何もできない。
患者さんの胸に聴診器を当て、点滴の滴下を見、尿カテーテルから尿が出ていることを確認し、
「血液検査の結果は変わりありませんでした」とか「尿はしっかりでていますよ」とか言う。

ほら、逃げている。

予後数日の方に対して、医者ができることは血液検査や尿量のチェックだけなのだろうか。
真摯に、患者さんを「治そう」と思ってやっているからこそ「治せない」患者さんに直面したときに、無力感、罪悪感にさいなまれ、足はベッドサイドから、病室から、遠のいていく。
元気なときは、病状説明や検査説明を30分もベッドサイドでしていたのに、死にゆく患者さんの傍には5分もいることができない。
苦しい、と患者さんが言っていても、それに対して患者に寄り添う、ケアをする、というのではなく「とりあえず」「その場しのぎの」治療や検査をする。それも、ある意味一種の逃げだと思う。

老いに対しても、逃げる。
認知症は、薬で良くできる「病気」とは言えない。なのに、みな判で押したように、認知症の薬を出す。それよりも大切なことがあるのに。
老い、からも逃げている。患者さんもだが、医師も「老い」に正面から向き合うことができない。
老いに向き合うことは、お互いに大変に苦痛を伴うものだからだ。
病院は、老いそのものを治療することはできない。その事実をまずは医療者が認め、では何をするべきかも考えないとならない。

患者から、逃げない。
これは、大変なことだ。誰だって、逃げたくなる。それをまず認めることだ。
私だって、ちょっと気を抜けば、患者さんから逃げようとしているときはある。本当につらいからだ。
でも、それを自覚した上で、でも自分は逃げることはしない、と腹をくくることが大切だ。
腹を据えて、覚悟を決めて、ようやく患者さんと向き合い、支えることができる。

そしてもうひとつ。
支えようとする自分たちにこそ、支える人が必要である。
これは小澤竹俊先生の受け売りだが、支援しようとする我々は、ひとりでは支えることはできない。
大勢の仲間、理解者、支援者が必要である。
それがあってこそ、我々は患者さんと、ずっと向き合っていける、と思う。

自分も弱い存在だ。逃げたくもなるし、一人では何もできない。
でも決して恥じることはない。
それを、自覚することこそが大切なのである。

2013年3月4日月曜日

生きる希望を考え、死を想う

(昨日の大蔵先生の講演に触発されて書く。一部内容拝借)

希望、とは何か考える。
ここでいう「希望」とは「生きる希望」である。

人間誰しも70~80歳にもなれば、体は衰えてくる。
これは「病気」ではない。
この「衰え」も病院で治せる、入院したら良くなる、と思われている節もあるが、実際には良くなるどころか悪化する例だってある。

がん、認知症、心不全、脳血管疾患など誰しもが加齢に伴う病となり、皆が等しく死を迎える。
もちろん、様々な技術の進歩により、死までの時間を延ばすことは可能になったし、これからもそうなっていく可能性はある。
平均寿命が150歳、なんて世の中ももしかしたらいずれはあるかもしれない。
そういう意味では「夢の新薬」や「夢のような技術」は生きることの「希望」だろう。

しかし、現在80歳前後の寿命が、150歳に延びることは、本当に希望ある世の中なのか。
もしそうなっても、130歳くらいになれば「ああ、あと20年くらいしか生きられない」と思うのではないだろうか。
仮に、がんの特効薬ができて、がんが撲滅されても、他の病気で私達は死んでいく。
私達が人間である限り。

もちろん、現在がんで苦しんでいる方には、がんの特効薬ができることは「希望」だろうが、「治る」ことだけが希望なのだとしたら、その先にはやっぱり絶望しかないんじゃないだろうか。

これは残酷なことかもしれないけど、大切なことだ。
私だっていずれは何かの、死に至る病になる。
一時は、手術や薬で命が延びるかもしれない。でもまた数年後には死に至る病になるだろう。それをまた治しても、また同じことの繰り返しだ。
だとしたら、人間が生きることの希望はどこにあるのだろう。

それに一定の答えを出しているのが、種々の宗教であるのだろうが、私は死後の世界というものは、ある、とか、ない、とかはあまり興味が無く、あってもいいけど、とりあえずこの世の中のことは、この世の中でケリをつけたいと思っている。
そう考えれば、自分に残された時間は、あと長くても50年ちょっとくらいだろう。
もう既に1/3は過ぎている。
だから、時間が足りないかもしれないと思っている。
何のための時間か。
自分の中で言うと「ああびっくりした」と世の中に思わせるための時間と、「ああ安心した」と世の中に思ってもらうための時間である。
「ああびっくりした」は、端的に言えば世の中を楽しませるあらゆること。それをたくさん生み出すことが自分の喜びであり、生きる希望である。
「ああ安心した」は、自分が安心して死ねるためのあらゆること。死ぬまでにそれを準備することが、生きる希望である。
死ぬことは仕方がない。じゃあ、死ぬまでにたくさん楽しいことをやって、世の中を楽しませて、そして安心して、(できれば上手に)死にたい。それが希望、かな。

一般的な希望、そんなものはきっと無いんだと想う。
でも、死から逆算して考えたとき、それぞれが、その中に見えてくるものがあるかもしれない。
それを生み出す手助けをするのも、これからの自分たちの仕事かと思っている。

今の社会は、死から隔絶されすぎている。
昔は、自分の祖父母、父母だけでなく、多くの親類縁者の死を、その過程も含めて経験することができた。今はそれがない。
「死を想え」と、有名な言葉があっても、死が想像できない。遠い彼方のものか、恐くて忌避するもの。何か高尚なものにしたがる傾向も世の中にあるが、それは誰の身にも起こる、現実である。
死や老いを、もっと近しいものに取り戻す必要があるのかもしれない。
そしてこれから、超高齢社会を経験していく中で、希望とは何か(自分だけではなくそれぞれにとっての)、常に考え続けることが必要になってくると思う。


追記
この文章は、自分の内面を掘り下げたもので、他の方々に同じように考えるように、と促すものではないことを付記しておく。
また、「だから治療を受けるべきではない」と意図するものでもない。
例えば抗がん剤。こんな文章を書くと、医師は自分が癌になったときに抗がん剤を受けない、という論の裏付けになりそうだが、ばかげたことだ。
抗がん剤をする目的、それが自分の生きる希望と合致していれば、当然それを受けるし、ムダだと思えば受けない。例えば、いま、全身転移のがん、と診断されたら、抗がん剤を受けたいと思う。でも、20年後、30年後にどう思うかは、その時にならないとわからない。
この点については「治療をすることそのものが医療の主たる目的となりがちな」現在の状況に疑問を持っており「患者にとってもっとも利益があると思われることを、医療で支える」のが自分の中での医療のあり方と思っていることから、そう思うのである。