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Pt's Voice002:私、がんになってもいい、と思えるようになりました

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「どうしてそう思ったのですか?」と患者さんに聞いた。

私はね、近い将来、必ずがんが再発してくると言われてる
以前はね、がんになることが恐くて恐くて仕方なかったの
でもね、こうやって話を聞いてくれる人たちができて
支えてくれる人たちができて
ああ、もうがんになっても、安心だなって思えるようになったの
ここに頼りさえすれば、大丈夫って

だから、がんになってもいい、と思えるようになったのよ。

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Pt's Voice=ペイシェンツ・ボイスは「患者の声」をデジタルアーカイブとして遺すプロジェクトです。

有名人の言葉は時を超え、後世に語り継がれ、その言葉は死ぬことはありません。
一方で、その人生を懸命に生きたひとりひとりの言葉も、その言葉に負けることがない輝きを持っています。
それらの言葉の生を引き継いでいくために、記録を残していきたいと思います。

Pt's Voiceでは私の解釈は一切記しません。
患者・家族と私との対話のみです。
その生の声から何を学ぶか?それは皆さん次第です。

教祖になりたがる医師

緩和ケアの医療者なのに、特定の治療法が「正しい」って言ってしまうという事例があることを知る。
先日は、「全ての抗がん治療をあきらめないと緩和ケア病棟には行けない」っていうのもあったけど、どうして医療者側が自分たちの信念を患者に押し付け、人生を操作しようとするのか。

そりゃあ、「抗がん剤はもうありません」って言われて絶望した患者さんに「こんないい治療があるよ」って言えば、患者さんは信じると思うよ。
でも、それで患者さんの希望をつないだと思っているなら勘違いも甚だしい。

効かないかもしれないけど、効くって信じて何らかの代替治療を続けるのが希望?
患者さんが自分でそう信じるのはいい。
でも医師がよかれと思ってそれを勧めているのだとしたら、もうそれは完全に「医者っぽい」考えの塊。
だとしたら、その患者さんの人生はどこまで行っても絶望しかない。
気づくのを先延ばしにするだけ。

患者さんの希望は、患者さんの中にしかない。
誰かが外から与えられるものじゃない
探す手伝いはできるけどね。

緩和ケア医療者は、自分の死生観はしっかり持っておくべきだけど、それは切り分けて、真っ新な状態で患者さんと向き合えるようでないと、患者さんの人生を操作することになる。
医療だって宗教の一種と考えて相対的にみれば、もう少し自分たちがやっていることが冷静に観られるようになる。
宗教なんて非科学的だ、と言っている医療者が好んで医療という宗教の教祖になりたがるなんて滑稽じゃないか。

医師は神様でも仏様でもないよ。
私たちを拝んでもあなたの人生の道が見つかることはない。
私たちができることは、考えの枠組みを披歴することと、薬という手段でのちょっとした手伝いだけ。
人生の道、あなたの神様はあなたの中から見つけるしかない。

医療に人生を合わせるのではなく、人生に医療を合わせる。

大事なことなのでもう一度書きますが
「医者が提示する治療に、患者の人生を合わせる」
のが常識ではない。
「患者の人生がまずあり、それに医療が合わせていく」
のが当然。その当然の前提が、病院という場では危うくなるのが今の医療の現状。 — 西智弘@VALU開始 (@tonishi0610) 2017年11月18日
先日、私のツイートの中では結構RTされた投稿があったので、ちょっとまとめてみる。

私は腫瘍内科医で、基本的には患者さんに抗がん剤治療を行うことがメインの仕事だが、私の外来では結構な割合で「抗がん剤は希望しません」という方が出る。
最近もまた、2名ほどの方が、抗がん剤治療を希望されずに緩和ケアに専念する生き方を望まれた。
しかし、全員が抗がん剤を希望される価値観なんてあるわけがなく、一定数こういった方がいる方が普通。
皆さん、私の外来で「自分の望む生き方」を話されていく。
医師側が一方的に「あなたの生き方は抗がん剤を行いながら生きていくことに決まりました」としなければこうなる。

外来でまず聞くのは「病状をどう受け止めているか」。
その次に抗がん剤の説明をするが、他に「あなたはこれまでどういう人生を歩んできていて、これからどうしていきたいか」「今の心の支えとなっているものは何か」といったことを聞く。それがないと、その方に抗がん剤がいいかを決められない。
最初は「抗がん剤なんて受けません」と言っていた方でも、患者の望む未来のために抗がん剤が必要と考えれば説得するし、「抗がん剤受けようかな」と言っている方でも、副作用の影響が大きく生き方を損なうようであれば勧めない。

医療に人生を合わせるのではなく、人生に医療を合わせる。
それは当たり前のこと。


落合陽一さんへの違和感とAI時代の医師

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(2017/11/24落合陽一さんご本人からのコメントを文章最後に追記)

最近、落合陽一さんの言説にはまっている。
著書も読んでいるし、ネット上で見つけた記事は片っ端から見るようにしている。
情熱大陸も(一応)見た。

しかし、落合陽一さんの言説を知るほどに、自分の中での違和感が広がっていった。
これはなんだろう?と考察した結果、自分が行きついた結論は
「それは自分が医師という職業の中で生きているからだ」
という点である。

先に述べておくが、これは落合さんを批判する文ではない。
むしろ、落合さんの言説にはほぼ賛同しているし、これから述べることも著作の中できちんと考察されている。
この文は、それを医師という背景からとらえ直したものである。

まず、落合さんに抱いた違和感について書く。
それは、彼の描く未来像への違和感である。
これからの人類がどういった方向に向かっていって、そのために私たちがどういう考えの枠組みで、どう行動をすればいいのか、ということを落合さんは示している。
機械と人間の融合が進み、機械との対比という形で培ってきた近現代の人間性は失われていく。「1600年以降に培われた人間性のことは忘れてください」とも述べている。
その描く未来そのものは真実だろうし、そうなっていくべきだ。
しかし、その一方で「古典的人間性を保とうとする集団」も残り、そこで対立や衝突が起こりうることを落合さんは指摘している。そして、その両者が「分断されることがないことを願う」とも述べているが、ではその分断が起こらないためにどのような解決法があるのか、ということへの言説は薄い。
多くのメッセージは前者に向けたものである。

ここで、私たち医師が考えなければならないのは、私たちはこの未来に対してどのように向き合うべきかということである。
前者の未来を追い、医療の世界にも積極的にテクノロジーを導入し融合していくべきなのか、それとも古典的な人間性を重視したり、職人的な技術で勝負していこうという道を選ぶのか。
最近の医療界でも、この「AIが医師の仕事を奪うか否か」という議論が盛んになってきている。
「AIはいずれ医師の仕事を完全に担えるようになる」という方もいれば、
「医師の仕事はプログラムのようなものでは代替できない専門性がある」という方もいる。

私は、この両者とも間違いだと考えている。
医師の仕…

Pt's Voice001:俺たちはロボットと話をしに来ているわけじゃないんだ

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初診の外来で、その患者さんは言った。
これまでの医者は、だれも、自分の目を見て話してくれなかったらしい。

多くを求めているわけじゃない
専門的な知識と
人間らしい扱い
それが俺たちが求めるものなんだよと、その患者さんは言った。

俺たちは、ロボットと話をしに来ているわけじゃないんだ。

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Pt's Voice=ペイシェンツ・ボイスは「患者の声」をデジタルアーカイブとして遺すプロジェクトです。

有名人の言葉は時を超え、後世に語り継がれ、その言葉は死ぬことはありません。
一方で、その人生を懸命に生きたひとりひとりの言葉も、その言葉に負けることがない輝きを持っています。
それらの言葉の生を引き継いでいくために、記録を残していきたいと思います。

Pt's Voiceでは私の解釈は一切記しません。
患者・家族と私との対話のみです。
その生の声から何を学ぶか?それは皆さん次第です。

Pt's Voice000:死を迎えても言葉は生き続ける

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今週から「Pt's Voice」という連載を始めます。
Pt's Voice=ペイシェンツ・ボイス、つまり「患者の声」です。

私はこれまで3000人を超える方の生死に関わらせていただき、その方々が人生にかけた思いを見てきました。
もちろん、その中にはもうこの世にはいらっしゃらない方もいます。
それでも、その方々が遺した言葉は、今でも私の中にあります。

しかし、私もいずれは老い、何らかの病を得、そして死を迎えるでしょう。
そのときに、その患者さんたちが遺した言葉も消えてしまうのでしょうか。
そう思うと、私はこのデジタルの世界に、この言葉たちを記録しておきたくなったのです。

有名人の言葉は時を超え、後世に語り継がれ、その言葉は死ぬことはありません。
一方で、その人生を懸命に生きたひとりひとりの言葉も、その言葉に負けることがない輝きを持っています。
それらの言葉の生を引き継いでいくために、記録を残していきたいと思います。

これらの言葉が、多くの方々へ届くことを期待しています。

(登場する患者さんの状況は個人情報保護のため大幅に設定を変更しています)

医者になるには、という話(後編)

前回の記事で、ヘクトパスカルのせいで見事、志望校(前期試験)を不合格となった私。
いつまでもくよくよしていても仕方がないので、予備校の入学手続きと、一応後期試験の準備を始めた。

前期試験で100%受かる気満々だったので、後期試験は受けるつもりがなく、なぜか「D判定(下から2番目)」で、「志望先の再考を検討してください」と書かれた、元々の志望校へ願書を出すという無謀なことをしていた。
偏差値で言えば10以上も上の医学部で、前期試験で不合格になっている自分が行けるはずがない。
しかも、その年の倍率(定員に対する志望者の数)は36倍。つまり10名の定員に360人が応募するという、何かのオーディションですか?というレベルの倍率。
しかも受けている方々は「東大受けたけど落ちました」とか「慶応に行きたかったけど、安全策でランク落としてこっちにしました」みたいな、「前期試験のすべり止めで、より低いランクのこの大学受けてます」という方々ばかり。
私のような「前期試験に落ちて、後期試験はなぜか偏差値10以上も上の大学を志望しました」みたいな逆転現象バカは肩身が狭かった…。

しかし、ここで一発逆転のチャンス!
この後期試験には「面接」があり、試験では差がつけられないと感じていた自分は、ここで差をつけるしかない!と考えたのである。
面接官は3人(もちろん教授)。
何を質問されて、どう答えたか、その内容は正確には覚えていないが、とにかくテンションだけは高めで臨んだ。
そして、「教授たちが多分こういう答えを期待しているんだろうな」という模範解答ではなく、世間一般の常識に疑問を投げかける形で、持論を展開した。そうしなければ、360人いる受験者の中で、自分に目を止めてもらうことなんかできないから。
そして最後に
「医学部に入って、医学をめちゃめちゃ勉強したいんですよ!」
と言ったときの「おー」という教授たちの表情が忘れられない。

その面接が良かったのか、結果的に私はその大学に合格した。
でも、合格証を受け取った時の正直な感想は「合格した実感がない」だった。
ちなみに私は中学から受験を経験しているが、実質的に筆記試験のみで合格したというのはその中学の時だけで、高校は推薦入学だったから面接で合格しているし、大学もなんだか「試験で合格した」という感じではない。
あれだけ大量に勉強に時間を費やし、受験…

医者になるには、という話(前編)

こんな話に興味があるのかと思うわけだが、興味がある人がいるというのだから面白い。

そうはいっても、自分は「よくありがちな」医者のなり方はしていないから、受験生のお母さんなんかが読んでも参考にはならないだろうことはお断りしておく。

そもそも、医者になろうと思った動機が、
「仲の良かった友達が医者になりたいと言っていたから」
という、
「みんなそのおもちゃ持っているから僕も欲しい」
的な、小学生感丸出しのノリ。
この話をするたびに周囲の方からがっかりした顔をされるので、もっと「人のために役立ちたい」とか「子供のころ助けてもらった先生にあこがれて」とか、そんな感動エピソードでも捏造したいくらいだ。
そうはいっても、高校生になるころには一応医学部を目指して勉強に励んでいた。

ここで、「どれくらいの時間を勉強したんですか?」とよく聞かれるが、あまり聞かない方がいい。
まず、朝7時に起きて登校まで勉強。
登校してから、基本的には授業は聞かずに自習、そのまま休み時間も自習、昼ご飯を食べながらも自習、放課後も自習。
で、家に帰ってからも勉強机に向かい、夜は塾。そして眠るのが11時くらい。
もちろん、日によってこんなに勉強しない日もあるが、長い時だと1日12時間くらいは勉強していたと思う。
高校3年の時には付き合っていた彼女もいたのだが、デートは下校時に彼女の家までの30分くらい、そして土日は「図書館で勉強しながら一緒に過ごす」という、今から思えばちょっと異常なお付き合いだった。

これだけ勉強していたのだから、さぞ成績も良かったのだろうと思われるかもしれない。
でも現実はそんなに甘くはない。
地元では成績はトップだったものの、全国模試ではランキングにも載らないほどの「中の上くらいの成績」だった。志望する医学部の合格判定は常に「D判定(下から2番目)」で、「志望先の再考を検討してください」と書かれる始末だ。
「人間、努力すれば何でもできる」と言うかもしれないけど、そこまで現実はマンガみたいにはできていなくて、生まれつきのスペックというものは確実にある。
その中で、努力することはもちろん必要だけど(努力しないと自分の限界もわからんから)、努力すれば結果が100%ついてくるわけではない。

じゃあ、私はどうしたか?
はい、全国模試合格判定のご指導に従い、志望校のレベルを下げさせて頂きました…

生と老と病と死のワークショップ

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「生と老と病と死のワークショップ」
名前だけ聞くと、「なんか怖そう」「宗教なんじゃない?」と思われるかもしれませんが実際には、
話して、
笑って、
ちょっとだけ涙する。
怖くはないけど、感情が大きく揺さぶられる体験をするのは確か。

今回は申込が殺到し、開催1か月以上前にチケット完売。
申込をお断りをしなければならないほどの盛況ぶり。


生と老と病と死のワークショップでは、生老病死の疑似体験から、自分の価値観を見つめていこうという試みですが、ここに「正しい答え」はありません。
私はナビゲーターとして私なりの考えや、皆さんが考えるヒントを提供しますが、私が言っていることは私の価値観ですし、それが皆さんと違うのは当たり前です。
そして、途中に何度かグループ内で対話をする時間があるのですが、そのメンバー個々での価値観が異なるのも当然で、その異なる価値観が出会うことで、新たな価値観を得ようというのがこのワークショップの醍醐味です。

参加した方々からは
「皆さんとのディスカッションで豊かになれた」
「対話により感情が揺らぎ、とても温かい気持ちになれた」
「グループ内で自分の考えの無意識的な部分を指摘されてハッとした」
という意見も。
参加するごとに、そのテーブルに座った方々との関係性で、得られるものが変わっていきます。
私は、これは単なるワークショップではなく、アートと考えています。
こういった、人との関係性から作られるアートのことをリレーショナルアートと呼びますが、このワークショップで得られるものはまさに、自分にひとつだけの作品です。

「生老病死」について、普段は考えたこともないかもしれませんし、ましてや他の人と対話するなんて経験もそうそうできるものではありません。
今回、参加者の方々から頂いた意見をもとに、またブラッシュアップしていきますので、ぜひご参加ください~!

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次回は2/25(日)に開催予定です。
募集は12月になってから開始しますので、少々お待ちください!

※法人・団体様向け「生と老と病と死のワークショップ」の御案内
・内容:法人・団体様の御都合に合わせて、任意の曜日・時間で設定が可能です。当法人から医師、看護師などスタッフを派遣しますので、候補日をいくつか頂き、こちらから派遣可能かについて打ち合わせを行います。まずは「お問い合わせ…

超福祉展が描く未来

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今年も、「超福祉展」行ってきました。
 超福祉展とは、


障害者をはじめとするマイノリティや福祉そのものに対する「心のバリア」を取り除こうと、2014年より毎年11月の一週間、渋谷ヒカリエを中心に開催を続けている展示会です。
思わず「カッコイイ」「カワイイ」と使ってみたくなるデザイン、大きなイノベーションを期待させてくれる「ヤバイ」テクノロジーを備えたプロダクトの展示・体験に加え、従来の福祉の枠に収まらない魅力的なプレゼンターたちが登場するシンポジウム、多彩なワークショップなど、さまざまな企画を展開してきました。。
(公式Webサイトより http://www.peopledesign.or.jp/fukushi/
という企画です。
 今年で4回目を迎えるとあって、メディアの注目度も高く、既に多くのレポートや報道が出ていますね。
 超福祉の定義はこう。
一人ひとりの心の中に存在する、障害者をはじめとしたマイノリティや福祉に対する「負い目」にも似た「意識のバリア」。 “超福祉”の視点では、従来の福祉のイメージ、「ゼロ以下のマイナスである『かわいそうな人たち』をゼロに引き上げようとする」のではなく、全員がゼロ以上の地点にいて、混ざり合っていることを当たり前と考えます。ハンディキャップがある人=障害者が、健常者よりも「カッコイイ」「カワイイ」「ヤバイ」と憧れられるような未来を目指し、「意識のバリア」を「憧れ」へ転換させる心のバリアフリー、意識のイノベーションを“超福祉”と定義します。 (公式Webサイトよりhttp://www.peopledesign.or.jp/fukushi/
「超福祉」の世界では、 単に健常者が障害者を支える、というイメージではなく、障害がある部分をテクノロジーが補完し、健常者と同等もしくはそれ以上の能力を有することだってあるわけです。
 また、これまでは障害のある方が使う道具だった、車椅子や補聴器なども、この超福祉の世界では、誰しもが普通に使う世の中になる。
「あれ、なんでお前今日は車椅子使ってねーの?」
と、「なんで今日メガネじゃねーの?」と同じようなノリで会話がされる。ここではもう、足が不自由な人と、そうでない人の境界はない。思えば、メガネだって昔は医療器具として、それを使っていること自体が恥ずかしく、分断を招くツールだったけど、今では…

polcaによる暮らしの保健室支援

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今月から、「polca」を利用した、暮らしの保健室への支援金募集を試験的に開始しています。

polcaで暮らしの保健室を支援する →https://polca.jp/projects/5ozCwJ4FEDm

「polca」は、クラウドファンディングでおなじみのキャンプファイヤー社が提供する、フレンドファンディングアプリ。
 クラウドファンディングと比べて、大人数へ訴求するツールではなく、またリターンも簡易なもので良く、支援金も500円など少額で設定できるので、企画者も支援者も手軽に始められるというメリットがあります。また、2017年11月の現時点では決済・振込手数料とも無料なのでその意味でも気楽です。

 今回、このツールを取り上げたのは、暮らしの保健室運営への資金集めをしたいこともありますが、もうひとつは「このサービスを多くの仲間たちに知ってほしいと思ったから」。
 特に医師は、「マネーリテラシーが低い」と一般的に言われていて、なんでかなーとは思うんですけど、自分もそうでしたから否定できない…。

 polcaが使えるシーンとしては例えば、
 ちょっとした企画を行いたいのだけど、数千~数万円が足りない…というとき。クラウドファンディングを行うにしては大げさ。

 そんなときにpolca。

 仲間内でのイベントのお金を事前決済したいなあー。振り込みだと面倒。

 そんなときにpolca。

 といったように、これまでお金のやりとりをするのに面倒だったり手数料が発生する部分を全部なくしたサービスがこのpolca。実際に、このサービスを利用して、多くの方々が興味深い企画をどんどん立ち上げています。
 是非みなさんも、このサービスを知って頂き「お金がなめらかに動く社会」を感じてみてください。

※私自身はキャンプファイヤー社に対していかなる利益相反もありません。

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暮らしの保健室の運営のため寄付のお願いをしております。

polcaで支援する →https://polca.jp/projects/5ozCwJ4FEDm

BitCoinで支援する →3BEQPRZHw4xHVPoGooCn1T469yJ53iHr7w







振込で支援する →
銀行名 横浜銀行
支店名 元住吉支店
口座種類普通
口座番号6061945
口座名義シヤ)プラスケア

シェア金沢に、行ってきた

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一般社団法人プラスケアでの研修旅行で、「シェア金沢」に行ってきました。
 シェア金沢とは、「日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community)」と呼ばれる場所。
 CCRCとは、高齢者が入居し、元気な方も介護や医療が必要になった方もみんなで支え合いながら過ごすことが出来るコミュニティの事を指します。しかし、シェア金沢は、高齢者限定ではなく、学生や障害をもった子供たち、またそのエリア以外の方々とも交流することを想定した「ごちゃまぜの町」です。


 訪れた日はあいにくの雨でしたが、小雨になると町の方々が出てきてくれたりして、ここでの暮らしぶりを伺うことができました。
 シェア金沢の中には、温泉があったり、マルシェがあったり、ジャズバーがあったりして、それぞれの場所で多世代が集まって思い思いに時間を過ごしていました。雰囲気的には、大きな家族、みたいな。そのように、たまり場ができてコミュニケーションが自然と生まれる仕掛けが町の中に多くデザインされていることが大きいのでしょう。
またある場所では、子供が大人にギターを教わっていたり、高齢者が売店の店主をやっていたり、美大の学生がカフェの窓に作品を描いていたり、障害をもった方がアルパカを散歩させていたり。誰もがこのまちのアクティビティに「参加」している。このまちでは誰も、「お客さん」ではない、という雰囲気が感じられました(実際にはそうでない方もいるでしょうけども)。実際、ここに入居する学生さんは、家賃が減免される代わりに、月に30時間のボランティア活動をしなければならないのだとか。

高齢者や障害者の方々と暮らす町を作る、というと、どうしても「健常者の側が、弱者である方々を支援する」というだけの発想になりがちです。もちろん、支援も必要なのですが、明確に「支援する側」と「お客さん」に分けるコミュニティが果たして誰にとってもよいコミュニティといえるでしょうか。
 誰しもが、そのまちの活動に参加することができ、そのまちで「役割」を果たすことができる。それを実現するためには、単に「意識を変えていきましょう」と声かけをするだけではダメです。シェア金沢のように、町なかに散りばめられた様々な仕掛け、デザインが重要であり、また今後の技術革新を大いに取り入れていくことで、どんな多様な個性を持っていたとして…

宗教を忌避していると、結果的にカルトにはまる?

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最近
「宗教みたい」
と揶揄される事態が多く発生したので考察。

例えば画像にある「生と老と病と死のワークショップ」。
色々なところで宣伝させてもらったが、一定数で「それって宗教系?」と怪訝な顔をされる方がいらっしゃる。



まあ、実際に参加されればわかると思うんですけど、
宗教か宗教じゃないかと言われれば、

これは宗教ですよ。

日本は「宗教」といったときにイメージが悪すぎるんですよね。
恐らく、20世紀末に流行ったカルト系宗教なんかをイメージしているんでしょうけど。
多くの患者さんに「信仰されている宗教は?」と尋ねると90%の確率で「ありません」と答えられますしね。中には「信仰?宗教なんてとんでもない」と全力で否定される方もいますし。


でも、実際に人間が宗教なしで生きていけるかっていうと、それはないと私は思っているんです。
これはもちろん宗教の定義によるけど、宗教の定義自体、宗教家の数だけあると言われているくらい確たるものはないみたいで。
ある定義では、「超越的なものに対する信念」とされているので、それで言えば、科学だって宗教だし、医師はシャーマンのようなもの。最近だとAIを信仰する宗教なんてのも出てきているし、決して神とか教祖を信じることだけが宗教ではない。そもそも「本尊」のような対象を信仰するのではない宗教だって世の中にはあるしね。

「生と老と病と死のワークショップ」は対話を中心としたアートなので、私が教祖のように何かの教義を押し付けるような場ではない。
でも、それによって自分の人生と向き合うという体験は、間違いなく宗教に通じるものだと思う。
信じるものがなければ、人は生きていけない。その対象は、自然でも科学でも自分自身でも、もちろん神でもいい。
宗教が必要がないと言っている日本人は、実際に自分が危機的状況に陥った時に慌てふためいて「本尊」を探し求めるから危ないと私は思っている。
それこそカルト宗教的なものにはまってしまうんじゃないかとね。

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