死は受け入れられるのか否か


先日、とある方が「死について事前に話し合っておけば、死を受け入れられるようになる、と考えるのは危険だ」と発言していました。

しかし、医療者は日常的に「あの患者さんは(死に向かっていく)病状を受け入れています」とか「病状を受け入れていませんので、医師からきちんと説明してください」などという発言を繰り返しています。

さて、ここでの疑問は、「そもそも人間は死を受け入れることは可能なのか否か」という点です。
皆さんはどう思われますか?
自分が、数か月以内に死に至る病にかかったとして、それを受け入れて死に対峙することができそうでしょうか?

エリザベス・キューブラー=ロスは『死ぬ瞬間』という著作の中で、死を予告された患者がたどる心理プロセスとして、
最初はその病状を否定する「否認」
→「どうして自分が」という「怒り」
→何とか死なないですむ方法がないかを模索する「取引」
→そして抑うつ
という過程を経て、最終的に「受容」へと至るだろうということを書いています。
緩和ケアにおいては、この「受容」へのプロセスを導くことがケアの望ましいあり方と、考えられているような節があります。

ここで考えないとならないのは、「受け入れる」というのはどういう状態を指すのかという点です。
「私は最後まで治療に前向きに生きていきたい」と言えば「受け入れていない」ことになるのか。
「もう諦めました」とつぶやき、うなだれている患者は「受け入れている」ことになるのか。

私は、人間の死に対する心理というのが「受け入れているか、受け入れていないか」などときっぱり分かれることはないと考えています。
ある時は医師の前で「もう思い残すことはありません」と笑っていても、受け持ちの看護師の前では「死ぬのが怖い」と涙を流しているなんてこともありますし、緩和ケアの医師の前では「ホスピスに入れてもらえてありがとうございます。あとはお迎えが来るのを待つだけです」と言っていたのに、腫瘍内科医が回診に行くと「先生、がんに効く画期的な新薬の情報はありませんか?」などと発言したりします。
これは、どちらかが建前でどちらかが本音、ということではなく、どちらも本人の「本音」です。
死を考えることは怖い、でもいずれ来る未来に向けて今は精一杯生きていきたい、ただふとした瞬間に「もう終わりにしたい」とも思う…など、患者の思いは多彩で移ろうものです。
その一面だけを切り取って、「受け入れているか、受け入れていないか」を他者が評価するのは浅ましいと感じますし、患者本人も死に対峙しようなどと気負う必要はないと思っています。

私たち医療者ができるサポートは「患者に死を受け入れさせるために何度も説明すること」ではありません。
患者がどのような生き方を望み、残された時間がある程度限られているという認識の下で、これから具体的に何をしていくか、を一緒に考えることです。「こんなはずじゃなかった」「もっとこれをしておきたかった」という後悔をできるだけ残さないようにナビゲートする役割です。
まだ十分時間が残っている状況で、病状や今後について厳しい話をしていくのは、「死の受容」のためではなく「悔いのない生」のためであるということを医療者も患者側も知っておく必要があると思います。






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