「底辺校出身の東大生」には何が「見えている」のか

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
という記事が200万PVを超えたそうだが、
それに対して私が書いた反論
見えている世界が違うのは田舎という場所の問題なのか
も1万PVくらいになって、反響の大きさを改めて実感している今日この頃である。

で、そういった反論に対して今回、回答を示した記事が公開された。
大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか

内容については正直「うーん…」という部分が多い。
どこが「うーん…」なのか指摘していこう。

●誠実ではない文章にはそもそも共感できない

筆者は、

「都会と田舎の格差を訴える」という最優先の目的を達成するにあたり、私は田舎と都会を、いわばイチゼロで語る方針を採った。そのようなわけで、いきおい、田舎には大学も書店も美術館も学習塾も「ない」のだ、それをまずは知ってほしい、という断定的な表現を多用することになった

と述べているが、それこそが釧路出身者から大きく批判された原因である。

筆者の主張したいことはわかる。
地方と都市部に教育格差がないとは言わない(データで明らかであるから)。
ただ、その主張を強調するために、前提となる部分を「表現」したとなると、その主張そのものに共感できなくなる。

また、その言い訳として

本文で「田舎」と「釧路」と「私」という主語を使い分け、一般論、釧路の例、個人的体験などを慎重に腑分けした書き方をしているつもりである

と述べ、釧路の事実を述べたのではなく田舎一般について主に問題提起をしている、と主張しているが、前回の記事では

・釧路市のような田舎に住む子供の多くは、おかしな話に聞こえるかもしれないが、まず「大学」というものを教育機関として認識することからして難しい。
・釧路のように地理的条件が過酷な田舎では「街まで買い物に行く」ことも容易ではないので、たとえば「本やCDを買う」という日常的な行為ひとつとっても、地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がない。
・東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがった

など、「田舎全般」という一般論ではなく、明確に「釧路市は(もしくは釧路+他の田舎では)」という主語で書かれている。
その前提となる釧路市で、筆者の通った高校での大学進学率が約85%、高校から徒歩圏内に大型書店や大型CD店があり、美術館や博物館があり、何より高校の図書室に受験に必要な各大学の過去問が揃っている、という事実があるのだから、
「文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されている」
という主張は通らなくなる(他の地方においては事実かもしれず、それを否定はしない)。
量や質において差があることは事実だが、それらの書籍を全て閲覧したうえで「足りない」ということなのだろうか。数学Ⅲとかにおける参考書だけでも10冊以上はあったはずだが。

※ちなみに釧路で2番目の高校でも大学進学(短大含む)は50%以上、3・4番目の高校で15%以上になり、具体的数字では480名をこえる。釧路市の18歳人口は1500名前後なので、この4高だけでも約33%となるが、それを多いと見るか少ないと見るか(住民基本台帳および釧路の高校進学率データより)。

重ねて言うが、私は地方と都市部に格差がないと言いたいわけではない。
筆者の、世に問題を訴える手法が誠実ではないと述べている。
「自らの恥ずかしい過去をさらしてまで訴えた勇気に応えるべきだ」
という主張もあったが、どんなに自己犠牲を払ったからといって、事実に立脚しない主張は最初から取り上げる価値がない。それが科学者としては当然の姿勢である。

●問題の本質は、教育・文化資源との物理的距離ではない

筆者の述べていることで重要なのは
「自分と離れた境遇にある人の生活や視点は想像ができない」
という点である。
これはまさしくそうで、それこそが問題の本質である。
そこで筆者は
「田舎にも情報格差がある」
と今回の記事では述べているが、それであれば本来の主張であった「田舎と都会と二分法で問題を考える」とは矛盾する。

問題の本質は、教育文化的資源との物理的距離ではなく、心理的距離とそれを形成するコミュニティにあると私は考える。
田舎にいようが都会にいようが、その子供が所属しているコミュニティ(家庭環境を含め)が、教育・文化的資源への到達を左右しているのではないか。
ただ、田舎のほうがそういったコミュニティに触れられる確率が下がり(人口が少なく多様性に乏しい傾向にあるため)、都会では生まれた土地のコミュニティは貧弱でも、他のコミュニティに触れる確率も高いため、格差が流動する確率も高くなる。
しかし都市部でも、成長するまでそういったコミュニティに触れられずに過ごさざるを得なかった子供が多数いることも事実であり、公教育がそこをどうマネジメントしていくかはずっと語られて取り組まれてきた課題であったはずである。

●筆者も他の釧路人は「見えていなかった」

子供が本来受けられる教育や文化資源を享受できず、成長が阻害されていることそのものは問題である。
地方において、コミュニティに出会えない確率がより高いことも事実である。
だからこそ、今回は「釧路」という場をデータも示さずに取り上げ、帰納的に釧路(+地方)における一般論を導くべきではなかった。
それこそ、自分以外の釧路に暮らしていた高校生は「見えていなかった」のだから。
あえて取り上げるなら「私から見た釧路という場所は」という私的心理世界の描写に留め、地方の実態は別にデータを用いての一般論として語るべきであったと思う。

今回の記事から連載となっていくとのことであるが、このまま「都市と地方の二分法+教育文化資源への物理的な距離」を問題の本質として押し進めていくつもりであるなら、どういった解決策をしめすのかが興味深いところではある。
しかも、(本来、その物理的距離を圧倒的に縮めうるはずの)インターネットも問題を解決しない、と書かれているので、それ以外の何かを用いて解決策を提示するのだろう。
そしてその内容が「地方に暮らしていない『見えていない』都会人に、『目を開かせ』『行動を促す』ことにつながる」方略であることを期待する。
今後も、その内容を注視していきたい。

コメント

  1. 初めまして。コメント失礼致します。
    Togetterで『「底辺高校」~』に対する意見(https://togetter.com/li/1222112)を見てそこから先生のブログへ飛ばせて頂きました。自分は卒後8年目の内科医ですが初期研修で釧路市に2年間暮らし、4年目も釧路市で後期研修をし、なじみの定食屋があり妻の実家でもあるため第二の故郷と勝手に思っております(自分は札幌市出身です)。

    >つづいて私が取り上げたいのは、「私も田舎の出身だが、こんなことはありえない」という反対意見である。釧路を直接に知る人々、あるいは釧路と同程度か、釧路よりも規模の小さい市区町村で育った読者からの反応も含まれているようだ。
    (中略)
    まず感想を述べておきたいが、私は彼らからの批判にもっとも心を痛めた。都会人に無視されるのはまだいい。そして田舎しか知らない人々は格差に無自覚であることがおおい。したがって、この批判を寄せた人々こそは、おそらく田舎と都会の両方を知る、もっとも私の意見に賛同してもらいたい層だったのだ。

    とありますが、「釧路"市"を田舎」と言っちゃえばその意図する所は別にあったとしても音別、阿寒、白糠、鶴居、標茶、弟子屈、別海、中標津、厚岸、浜中、その辺りの方々は「ふざけるな」「ジャスコやチャンフォー、映画館あるくせに」と思うのではないでしょうか。
    彼が上記郡部もしくは釧路"町"の厚岸・標茶寄りの出身であれば共感はより得られたのかもしれませんし(この発言も上記地区の住民の方からお叱りを受けるかもしれませんが・・・)、日本全国で比較すれば釧路市は田舎になってしまいますが北海道においてはこの間苫小牧市に抜かれましたが人口5位の都市ですから「田舎」というのはいささか乱暴な気がします(医療圏で見ても釧路市は恵まれた地域だと思います)。

    正直な所僕はこれらの文章を読んで「田舎出身だけどめげずに俺頑張った」という印象しか受けず、彼なりの方法で現代社会における問題を提起したいのだとは思いますが、先生が御指摘された様に誠実さを欠いている感が否めず、「もっとも私の意見に賛同してもらいたい層だったのだ」の一文からも傲慢さがにじみ出ており、文章に触れる人全てから共感を得るのは困難ではないかと感じました。
    乱文乱筆失礼致します。

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    1. ありがとうございます。たぶん、最もよいアプローチは筆者が文学者と言うこともあるので、フィクションとしての仮想町村のようなものを舞台にし、「IQはかなり高いが環境ゆえにその芽が出なかった少年」を主人公とした物語を書けば、多くの方に共感され、筆者の本来の目的は達成されたのではないかと思うのです。もちろん、今回の文章においてもファクトを重視しない層には響いたと思いますが、科学的思考を重んじる層は「答えはあっているけど数式が間違っている」という感じになるのではないでしょうか。

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  2. 阿部氏のツイッターによると、その後も氏は最初の記事は事実を述べていると主張しているようですね。
    最初の記事が出る前にも「釧路にはジャスコしかない」と書いていて、読んだ人をびっくりさせていたようです。
    なんだかだんだん「スタップ細胞はあります」と言い続ける元科学者に似てきたような気がします。

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    1. 本文で述べたように、筆者も釧路の他の高校生は見えていないのです。それは私自身が他の高校生が見えていなかったというのと同じです。だとしたら、一般化した文章を書くためにはデータを集めるしかなく、その客観性を尊重すべきでした。もしくは割り切って「私から見た釧路」に徹するべきでした。小保方さんにとってSTAP細胞は本当にあったのかもしれない、それは彼女の中では真実です。でも、他の科学者もそれを再現できなければ、それは一般に「ある」ことにはならない、というところですね・・・

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