言語で思考する人間と、アートで思考する人間

著作者:_Bruno_Ribeiro_

先日、興味深い方にお会いした。
世界を様々な視点からみて、新しい価値を提供するというのはよくあるが、その方は独特の感性で世界を切り取っていた。
今までに聞いたことがない考え方だったので、興味をもって聞いていたのだが、もう既に書籍化の話も出ているとのことで
「それは面白いですね。ぜひ本に仕上げてください」
とお伝えしたところ、
「私、この考えを本にできる気がしなくて」
と答えられたのだ。

その方いわく、これまでも自分の考えを文章にする機会は多々あったものの、文章にした瞬間に「違う」と感じてしまうのだという。
話ことばならまだそこまで違和感を感じないそうなのだが、書きことばにした途端に、自分が本来表現したかったものと様相を変えてしまうというのだ。

それを聞いて、私が最初に思ったのは
「思考を言語化するのが苦手だからでは?」
ということだ。
そういった訓練をしていない、または突き詰めていないから、言語化がうまくできず、結果的に違和感を感じてしまうのではないかと。
だから最初は「話をして、ライターに書いてもらうというのは?」などとアドバイスをしていた。

しかし、よくよく話を伺っているうちに、私はとんでもない間違いをしていることに気づいた。

それは

そもそもその方の思考は言語で深めていく類のものではなく、
アートそのもので思考を深めていく類のものだ、

ということである。

私自身は「自らの思考を言語で突き詰めていく」タイプの人間だ。
そして多くの方もそうなのではないかと思う。
しかし世の中には時に、言語ではなくアートで思考を深める人間がいる。
私がこれまでお会いしたアーティストの多くは、「アートで思考を深められるが、言語でも深められる」という方だったのだろう。自らのアートの意味を言葉で語ってくれる方が多かった。
しかし、アートの本質というのは、本来言語では語れないものだ。言語では語れないから、アートという手法を用いているのに、美術展などではご丁寧に作品の背景や意図などが解説されていて、私たちはそれを言語で読み、アートを分かったような気になっているのではないか。

彫刻家はよく「木を見ていて、彫っていたら、木の中からこれが生まれてきた」と表現する。
陶芸家もそうなのだろう。土と対話しているうちに、その作品が生まれたのかもしれない。
私は、そういった作家たちは「○○を表現したい」という言葉が最初にあって、それを表現するためにはどうやって構成すればいいかという言葉を自身に問いながら作品を作っているのだと思っていたのだが、盛大に勘違いしていたらしい。

私は、アートを見て泣くことができない。
それは私がかなりの部分で「物事を言語を通じて理解しようという人間」であるからだ。
それに対して、アートを見てそれと対話できる人間は、アートで泣くことができる。
私は音楽を聴いて泣くことができないが、音楽を聴いて泣く人間はいる。それもまた、「ベートーヴェンがこの曲を作った時の心境はこうだ」という知識があるから感動できるのではない。その旋律そのものと対話ができるということだ。
私には、それが理解できないが、世の中にそういった人間がいることは事実である。

その意味で捉え直すと、映画とはかなり優れたコンテンツである。
作品全体を通じて、絵と、音楽と、そして言葉の全てを組み合わせて表現することができる。だから言語で考える人間もアートで考える人間も両方楽しむことができる。

言語で思考するか、アートで思考するかは単一ではない。
「言語が中心だけどアートもわかるよ」から「アートが中心だけど言語もわかるよ」まで幅広いグラデーションがある。
どちらの方が得意かという違いがあるだけ。

しかし人は、多くの場面で言語での表現をすることを求められる。
人間の多くが、言語で思考することに慣れ、それが当然だと考えているからだ。
だから、本来アートで思考する人も、言語で表現することを求められ、そしてそれができなければ社会から評価されないということが起きてきた。

でもこれからは、アートで思考したい人はアートで表現できるのが自然だというようにしていった方がいい。
そういう思考法の人間がいるのだということを多くの人が知った方がいい。
だってそのほうがお互いにストレスが少ないから。
アートで思考して表現できる人は、小さなコミュニティでは少数派かもしれないけど、今のテクノロジーなら世界とダイレクトにつながれる分、多くの人と分かりあえるかもしれない。
それぞれの人がそれぞれの強みを見つめて、何が普通かということも曖昧になる世の中になればいい。

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ちなみに自分は「言語で思考し言語で表現する」ことに振り切った人間のように感じていて、音楽も美術も、「言語で理解しようとする」。
そればかりか、そういったコンテンツの全てを言語で分解(解剖)したくなるので、それはそれでちょっと異常のようにも思う。
言語を使いこなすのが上手というわけではないし(何をもって上手というかということもあるが)、自分の思考の言語化もまだ発展途上だけど、せっかくだからこれをとことん突き詰めていくっていうのも、アートを突き詰めるのと同じように面白いことなんじゃないかと感じている。

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