落合陽一さんへの違和感とAI時代の医師

(2017/11/24落合陽一さんご本人からのコメントを文章最後に追記)

最近、落合陽一さんの言説にはまっている。
著書も読んでいるし、ネット上で見つけた記事は片っ端から見るようにしている。
情熱大陸も(一応)見た。

しかし、落合陽一さんの言説を知るほどに、自分の中での違和感が広がっていった。
これはなんだろう?と考察した結果、自分が行きついた結論は
「それは自分が医師という職業の中で生きているからだ」
という点である。

先に述べておくが、これは落合さんを批判する文ではない。
むしろ、落合さんの言説にはほぼ賛同しているし、これから述べることも著作の中できちんと考察されている。
この文は、それを医師という背景からとらえ直したものである。

まず、落合さんに抱いた違和感について書く。
それは、彼の描く未来像への違和感である。
これからの人類がどういった方向に向かっていって、そのために私たちがどういう考えの枠組みで、どう行動をすればいいのか、ということを落合さんは示している。
機械と人間の融合が進み、機械との対比という形で培ってきた近現代の人間性は失われていく。「1600年以降に培われた人間性のことは忘れてください」とも述べている。
その描く未来そのものは真実だろうし、そうなっていくべきだ。
しかし、その一方で「古典的人間性を保とうとする集団」も残り、そこで対立や衝突が起こりうることを落合さんは指摘している。そして、その両者が「分断されることがないことを願う」とも述べているが、ではその分断が起こらないためにどのような解決法があるのか、ということへの言説は薄い。
多くのメッセージは前者に向けたものである。

ここで、私たち医師が考えなければならないのは、私たちはこの未来に対してどのように向き合うべきかということである。
前者の未来を追い、医療の世界にも積極的にテクノロジーを導入し融合していくべきなのか、それとも古典的な人間性を重視したり、職人的な技術で勝負していこうという道を選ぶのか。
最近の医療界でも、この「AIが医師の仕事を奪うか否か」という議論が盛んになってきている。
「AIはいずれ医師の仕事を完全に担えるようになる」という方もいれば、
「医師の仕事はプログラムのようなものでは代替できない専門性がある」という方もいる。

私は、この両者とも間違いだと考えている。
医師の仕事は、ある程度までAIに置き換わり、精度や質の面では大きく向上するだろう。
「まだ人間の医者に診断してもらってるの?大丈夫?」と言われる未来は来ると思う。
しかし一方で、医師の仕事がなくなるかと言われれば、それはない。少なくとも、私が生きている時間の間には、ない。
それは、先に述べたように「機械親和性の高い人間」と「古典的価値を保つ人間」が少なくともこの数十年の間は併存するだろうと考えているからだ。

多くの方は知らないことかもしれないが、「病院」という場所は、社会の中で最も弱い部分が露出される場所のひとつである。
社会の中で最も弱い「人」ではない。もっと、社会システム的な歪み、例えば貧困、障害と社会、家族関係の変化、社会構造の変化、社会的マイノリティー、もちろん病気と社会との関係もそう。病院の中にある問題は、「病気」という単一の構造と考えられているかもしれないが、実際にはこういった社会的な歪みが多く持ち込まれ、結果として医師が病気を治療しても、社会に復帰できない(病院から出られない)という方は大勢いる。
そういった社会の歪みの中で生きている方々にとっては、今目の前にある現実のみが現実であり、未来に向けた行動をとる余裕などない場合も多い。
であれば、そういった方々に対峙する私たち医師が追求すべき領域は、落合さんが目指す未来よりも、「1600年以降に培ってきた人間性」の方ではないかと考える。
古来、人はどのように生き、死に向き合ってきたか。近現代で家族構造や宗教的観念はどのように変化し、それが個々人の精神性にどのような影響を与えてきたか。変化していく社会構造やコミュニティの中で、人は何に価値を置いてきたのか、など。むしろ、過去から現在に向けての変遷を自分の中で整理し、その上で患者さん一人一人が抱える課題に向き合うことが医師に求められる技術である。

Pt's Voice001で「俺たちはロボットと話をしに来ているんじゃないんだ」という言葉を取り上げたのは、まさにこの点を指摘したかったからである。
人間には人間が、不安定だけど泥臭い人間らしく対峙する方がいい(だから逆に言えば、ロボットのような振舞いをしている医師は今後、淘汰されるかもしれない)。

しかし一方で、AIによる医師の仕事の代替を拒否するべきではない。
先に述べたように、その進歩は確実に患者への恩恵につながる。
そこでもうひとつ重要なことは「医師は自らを分割する能力を持つべき」という点である。
人間は、人格を分割する能力を元々もっている。それが意識的か無意識的かという違いはあるが。
医師は、患者さんと対峙するインターフェイスとしては「古典的価値を追求する」という点を重視すべきだが、その別の自分として「機械親和性の高い自分」を育てていく必要がある。
多くの方は、人格というのはひとつ、世界はひとつ、と考えがちだが、実際には切り分けられた人格の分だけ世界は作ることができる。
人格がひとつであれば、落合さんの描く未来を追いたくなるかもしれないが、その世界はもうひとつの人格に追わせ、患者と対峙する自分としてはまた別の世界をつくればいい。
落合さんが描く未来が魅力的だからこそ、それを追いたくなる方は多いだろう。
しかし、その結果として生まれる社会的歪みがあるのなら、それに向き合う人たちもまた必要だろう。
医師は、その両方の世界をつなぎ、両者の対立を緩和させうる職業のひとつであると私は考える。



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(2017/11/24追記)
この文章を公開したところ、落合陽一さんご本人からツイッターでコメントを頂きました。
貴重なコメントと思いますので追記します。


こういった考えについては記事や著書の中ではあまり拝見できなかったので、興味深いと思いました。
特に「文系が何をしたらいいのか」という答えのひとつとしてこういった視点があるという点。行政とか政治、法律の部分においても、世界が変わっていくのであれば、それに社会システムをゆるやかに合わせていくという作業を担う人材は必要ですよね。
最近は、医学の分野も文系学部との共同研究の機運が高まってきており、それがさらに進んでいくことで、社会へよりよい影響を与えていけるのではないかなという希望を感じています。

コメント

  1. はじめまして。たまたまtwitterでこのブログをお見かけして、私もちょうど気になっていたことなのでコメントさせていただきます。

    私は現在、都内でいわゆる難関校と言われている女子高に通っています。他の高校に比べると、女子校なのに理系の生徒が多く、その中でも半分は医学部を志望しています。私の友人達も皆、医学部を目指しています。でもどうしても気になっていることは、その子たちが本当に医者になりたいのかということです。中には親が開業医をやっていて、自明の理のように幼い頃から医者になると思っている子もいますが、私の親友の志望理由は医学部の偏差値が高いから、だそうです。何かやりたい職業がある訳では無いから、おそらく医者になるとのことでした。私はそれを聞いて唖然としました。成績面では私より遥かに優秀で、夢を持てば何にでもなれそうなのに、偏差値で職業を決めるというのは残念すぎる。
    医者がこういう人間ばかりと言いたいのではありません。でも、私の周りを見ていると優秀な日本の女子生徒は、将来の安定を求めて、(結構、親の考えがあると思います。)思考停止人間のように自分は医者になるんだと思っている人が多いような気がします。そして、こういう人が医者になるべきなのでしょうか。

    私は産業革命によって人間が(身体的な)労働から解放されて思考するようになったのと同じように、AIによる革命がより人間を人間たらしめてくれるのではないかなと思っています。

    医者という職業も膨大な知識の蓄積をある程度AIに任せることで、偏差値ではなく、より患者さんとのかかわり合いという面で、どんな人間が適正であるかを判断するべきだと思います。そして今は盲目的に目的なく医者を目指している高校生が夢をもって何かを目指し、一方で本当に医学に興味のある人間が医者になる社会になればいいと思います。

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    1. コメントありがとうございます。ブログを書きました西智弘と申します。
      まず「目的もなく偏差値が高いから医者になる」という点についてです。私自身が先日書いた他のブログ(医者になるには、という話 前編 http://tonishi0610.blogspot.jp/2017/11/blog-post_20.html)でも述べたことですが、私自身がその「大した目的もなく医者を目指した」人間です(偏差値はそれほど高くはなかったですが)。小学生の頃に友人と一緒に決めて、その後受験までの間に特になりたい他の職業もなかったため、漠然と医学部を目指していました。人体や生物学に興味はあったので、医師という職業を目指すこと自体に違和感は抱きませんでしたが。
      そうして医学部に入ってみて、医師になるための修行をしていくわけですが、私が自分がなりたい医師像を意識したのはこの頃ですし、医師という職業によって描きたい未来というのを意識できるようになったのは30歳過ぎてからでした。
      医学部に入り、医師になった方の中で、少なからず医師という職業そのものに興味が持てなくなる方がいることも事実です。ただ、それでも絶対に医師という職業に就かなければならないという決まりもありません。医学という学問を最も体系的に学べる場は医学部であり、その知識を生かしてライターやTVディレクター、医療機器開発や行政機関で働いている方もいます。
      以前と異なり、これからの世の中は、自分がしたくもない仕事を我慢して続けなければならないという価値観は薄れていくと考えています。医師であれば、医学部や医師になってからそれに気づいたっていいとは思います(むしろ嫌々医師を続けるくらいなら辞めてもらった方が、患者さんに迷惑がかかりません)。それに気づけないくらい思考停止だとしても、その思考停止状態のまま生きていくのもその方の人生です。案外幸せかもしれません。ただ、大抵の医学生は、遅くとも医師になって数年たつまでには、「自分が目指したい医師像」をきちんと考えられるようになっているものですよ。
      現在の医学部の選抜方法に、多くの問題があることは事実です。実際にはそんなに高い偏差値は必要ないですし、面接試験が課されているところでも、それでその方の医師への適性を判断できるほどではありません。ただ個人的には、選抜方法がどんな方法だとしても、学生さんがきちんと医師としての生き方に夢を持ってもらえるように、私たち現役の医師も自分たちの夢を語る必要があると思っています。
      もし現場の見学やインタビューなどのご希望があれば、高校生でも歓迎いたしますので、お気軽にご連絡ください。

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    2. 匿名さん、このやり取りについて、改めてブログ内で取り上げさせて頂きたく存じます。ダメ、という場合は取り上げませんので、その場合は1週間程度でお返事頂ければ幸いです。

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  2. 私は北大医学部志望の受験生です。一浪して19歳。今月25日に入試があります。
    落合陽一氏に興味があり、記事を拝見させていただきました。

    私は優しくて賢いイメージがある というだけで 小学生の頃から医師を目指してきました。親は普通のサラリーマンなので 進路選択は全く自由でした。他の職業に憧れたことも、この進路を疑ったことすらありました。
    具体的な医師像もあまり意識できていません。強いて言うなら、患者さんの立場に立って最適な医療を提供できる医師になりたいと考えています。
    ですが、面白いことがやりたい、同世代や下の世代を牽引できる人間になりたいと漠然とですが意識しています。
    昔から、それに向かって何かをするというよりは、常に興味のある対象を作ってその時々でベストを尽くすというやり方で生きてきました。
    人によっては、私のような学生を「思考停止人間」だと揶揄されるかもしれません。自分でも時々、本当に医師になっていいものかと疑問に思うこともあります。

    新時代の二元論的世界とそれらを繋ぐ医師という立場についての話には、非常に感銘を受けました。
    私は、人間の意思に関わらず、落合氏の描く未来はすぐにやってくると思います。
    また、今日本が抱えている少子高齢化に付随する様々な問題(人口減少、介護、地域医療など)はAIやその他のテクノロジーに頼らねば対処できないだろうと考えています。
    そんな中で、自分が医師として働くうえでどこへ向かうべきなのか?と日頃から考えていましたので、その問いの一つの答えが得られたような気がしました。

    大学では、勉強はもちろんですが、そこで得られる多くの知識と経験を通して自分の殻を破っていきたいと思っています。
    そして、私のような学生が、これから何を意識して行動すべきか?アドバイス頂ければ幸いです。

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    1. コメントいただきありがとうございます。学生として何を意識して行動すべきか?についてですが、私なら「アンテナを高く立ててとにかく行動してみること」「きちんと勉強をすること」「たくさんの人に会うこと」をお勧めします。
      行動する、の中には医師としてというのもありますし、人として、というのもあります。将来どんな医師になりたいのか?それについては早めに目標を決めることをお勧めします。もちろん、将来的にそれとは違った分野に就くこともよくありますがそれは無駄ではないと思います(私も最初は家庭医を目指していましたが、のちに転向しています)。医学を勉強することは重要ですが、目標なく勉強することはつらくないですか?私は目標のない勉強がつらいタイプなので、「家庭医になるために勉強する」というマインドセットが役に立ちました。また、そういう形でポジションを取れば、それに応じて多くの人に会うことが実になります。もちろん医療職だけではなく、他の様々な職種の方に会った方が良いです。ただそれも、やみくもに有名人に会ったとしても、意味がないとまでは言いませんが、単に「将来は医師になります」というよりは「こういう分野でこういった仕事をしていきたい」という方が興味を持ってもらえる確率が上がります。
      まずは受験ですね。ちなみに私も北大医学部卒です。後輩になってもらえることを祈っています。

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  3. また、お邪魔致します。
    スミマセン。
    初めまして。
    無視はして欲しくないのですが、今まさに、私が苦しめられている問題な気がしますので。
    お医者様へ。
    患者は人間です。
    患者からは、医師はある意味神さまにも匹敵する存在です。AIからは、暖かい人間の言葉は貰えませんよね。
    他の業種でもですが、効率化された今のだからこそ、患者には医師の一言が必要ではないでしょうか?ロボットからではなく。
    手を触れる、励ます、という行為が必要なのです。
    また、心理的にも、Alなど、人工的な冷たい何もかもが、管理されて、予定通りでは、生物、動物として人間が本来持っている、本能や感情が抑圧されたり、爆発して、弱者に向いたり、トラブルになります。どうか、若い先生方や、これから目指す方々は、世間をよく見て、体験した上で結論を出して下さい。
    人は、自分の経験値でしか、測れませんが、自分が経験したことの無い経験をしている患者が大半で、ヒトリヒトリの、人生がある、という事を、忘れないで欲しいです。恵まれた資質や環境な方が医師になれると思いますので、特にお願いしたいです。

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    1. ありがとうございます。私もそう思っています。ただ、AIが医師の仕事の一部を代替するだろうことは避けられないことで、ではそれに応じて医師側もその能力(ご指摘されているようなコミュニケーションなどの)を上げていくことが求められるのではないかと予測しています。いまの医学教育はその部分がまだまだ不足していますので、これからも啓発を続けていかなければならないかと考えています。

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  4. AIの言葉って利害が絡まないし、人間じゃないから言葉そのものを純粋にまるごと味わえるというか、素直にきけるというか、むしろ暖かいのでは?自分という存在を知り尽くしたハイヤーセルフ的な存在の言葉みたいなものなのでは?人間不信はあるけど、AI不信なんてあるのでしょうか?あるとしたら、AIの背後にいる人間に不信感を抱くという感じではないのでしょうか?

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