個別の案件と一般化事項を混同させてはいけない

癌治療学会の騒動もひと段落つきましたが、今回の騒動に関連して様々まきおこる意見に対し、興味深く拝見していました。

その中で、以前からブログに書こう書こうと思っていたのが、表題にある

「個別の案件と一般化事項を混同させてはいけない」

です。

これはどういうことかと申しますと、今回の件のように非標準治療に対して、標準治療側が「エビデンスがない」「インチキ医療だ」と騒ぎ立てると、逆に「人間はエビデンスだけで語れるものではない」とか「標準治療が無くなったら大人しく緩和ケアを受けて死ねということか」という反論が返ってきます。
ですが、ここで前者の主張は「一般化事項」について話をしているのであって、後者は「個別の事案」について話をしています。だから、いつまでたっても議論はかみ合わず平行線になります。

これは、倫理学に関する分類の中で、そもそも「倫理」というのは法律で規定されるものではなく、その特定の集団内でOKかNGかをみんなで決めているもの、といった面がありますが、そこに「生命倫理」と「臨床倫理」があるとされています。
例えば、「脳死は人の死か」という命題は「生命倫理」に関するテーマです。一般的に、日本人としてどのように考えていくのがいいのか、といったことを検討します。
その一方で、「20歳の男性が、交通事故で脳死状態になった。本人は臓器提供意思カードを持っており、そこには全ての臓器を提供する意思が記されていた。しかし、両親は『息子はまだ死んでいない、臓器提供は認めない』と拒否している。この20歳の男性についてその死を認めるべきかどうか」といった命題を扱うのが臨床倫理になります。
この例をみてもわかるように、「脳死は人の死か」というテーマは10年ほど前にはかなり熱い議論が行われ、いまだその結論は出ていないものの、臓器移植を前提とした特殊な状況においては「脳死は人の死である」ということが、決められた、という感じになっています。
その一方で、後者の命題では、生命倫理で行われた議論とは、まったく別の次元で議論しなければなりません。それはこの命題が「個別化された案件」だからです。

話をがんにおける標準治療と非標準治療に戻しましょう。
エビデンスは、その研究で示された条件と同じ行動をとれば、そのエビデンス通りのことが95%の高い確率で再現されることが一般的にわかっている「一般化事項」です。それに対し、非標準治療は仮にどんなに良心的な医師が提供しているものであれ、行っている内容がどんな人にどれくらい有効で、逆にどの程度効果がないのか、といったことも全く分からない「個別化案件」です。

標準治療を勧める医師が、公開された講演の場やSNS、また著作などの中で「一般的に患者さんにどういった医療を勧めるか」ということを述べるとするならば、それは「一般化された事項」であるしかなく、一般化されるというのは、受け取る側がどういった背景や知識レベル、思想などを持っていたとしても、一般的にかなりの高確率で有効であり安全である、ということについて話す以外にはないのです。そういった公開の場で、「非標準治療でがんが小さくなった例が1例いる」と話せば、それを聞いた聴衆のうちの一部は、「自分にも効果があるのではないか」と思うということです。しかし実際には、その治療で効果があった1例の背後に何万人という「効果がなかった」人がいるかもしれないのです。
こういうと、「患者さんの知識レベルをバカにするのか」「聞いたうえでどう行動するかは自己責任では」と反論を受けそうですが、それもまた「個別化事案」なのです。「一般化された事項」について伝える意図を持っているときは、それを聞いた聴衆全員がどんな行動をとるかを予測できないのであれば、その話した内容に責任を持てるゼロリスクの範囲のことしか話せないし、話すべきではないということなのです。

一方で、診察室の中でマンツーマンでお話しているときは、それは「個別化された案件」なので、非標準治療についての話だってしてもよいのです。もちろん、エビデンスについての話もするのですが、それ以上にその患者さんの背景、生き方、価値観なども含めて話し合い、そのうえで「私は非標準治療を受けることが自分の生き方に合っている」と患者さん自身が結論付けるのならば、その生き方を含めてどう支えるかということを医師は考えます。
逆に言えば、こういった「個別化案件」についてまでエビデンスという「一般化事項」のみで話をしようとすると、その関係性は破綻する可能性もあります。これもまた、議論がかみ合わないからです。

多くの「かみ合わない議論」が、この「一般化事項」と「個別化案件」をごちゃごちゃにして議論していることからくるものであることが、その目で見ると明らかになってきます。

「エビデンスは大事だ」 → 一般化
「多くの患者さんが標準治療によって延命を図ることができる」 → 一般化
「抗がん剤には多くの副作用があったり、効果が出ない方もいる」 → 一般化
「そういったことで標準治療ができなくなったかたは緩和ケアへの専念を勧められる」 → 一般化
「あとは緩和ケアといわれたら、私はもう治療を諦めて死を待てということか」 → 個別化
「エビデンスと言うけれど、そんな冷たい数字や確率で人生を決められたくない」 → 個別化
「私は、それでも非標準治療を受けたいというのは正しいと思う」 → 個別化

Evidence Based Medicine(EBM)は、私が改めて言うまでもないことですが、エビデンスを吟味するところまでは一般化事項についての話なのですが、その5つのステップの4つめに、「批判的吟味した情報の患者への適用」があり、そこからは「個別化案件」の世界の話なのです。だから、エビデンスだけを個別の患者さんに対して話すのは間違っているし、その一方で、公開の場でさも一般化される事項のように、個別の案件を話すことも間違いなのです。
また、こういった現象は、日常のカンファレンスの中でもまま繰り広げられる場合があるので、どこから一般化事項と個別化案件が切り替わったかに注意してみていると、最終的に議論がかみ合わなかった理由が見えることもあります。ぜひご活用ください。

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