オプジーボ難民と自由診療:我々標準治療側のアドバンテージ

 とても興味深い論説が載っています。

難民と医療不信が大発生~オプジーボの光と影(2)

 オプジーボ難民が発生し、医療不信が爆発する可能性がある、というストーリーについて色々と書かれており、確かにオプジーボが自由診療クリニックで多数使用されている現実に、我々は危機感を抱くべきだということには頷けます。

 確かに、標準治療を行う側である我々が、自由診療に対して何の危機感も持たず、「王座」に胡坐をかいているような現在の状況は憂慮すべきです。これ以上信頼が失われれば、その「王座」の価値すら危うくなるという恐れは確かにあります。それは別に自分たちの給料が減るとか、医師としてのプライドがどうこうとかの些末な問題ではなく、患者さんの「生」を守るためにも堅持すべき「座」です。

 ただ、本論文では財政的問題と医療的問題など多数の論点が整理されずに記載されており、感心しません。結論として「(標準治療側は)自由診療クリニックを頼って生還した患者が社会に広く認知されないことを祈る他ありません」「多数生還しないことを祈るしかない」などと書かれておりますが、それは我々に対する悪意かと勘ぐってしまいます。

 これまでの免疫細胞療法の効果は実感したことはありませんが、オプジーボ自費診療については効果のある患者さんをみたことはあります。それについて「自由診療でオプジーボ投与されて良くなって忌々しい」などとは、当然考えません。かといって、「じゃあ、もっと多くの患者さんにオプジーボを勧めよう」とも思いません。

 まずひとつ言及すべきことは、ある患者さんがオプジーボ投与されて良くなったからと言って、次に治療される患者さんにもその治療が効くかどうかは全く不明ということです。標準治療であれば、データとして例えば「50~60%の方でがんの縮小効果があり、中央値で2年の延命効果がある」ということがわかります。一方で、自由診療ではそれが10人に1人の効果なのか1万人に1人の効果なのか、また腫瘍が縮小してもそれが延命につながるのか、といったことは全くわかりません(がんが縮小しても延命につながらない場合がある、というデータは多々あります)。「この病気を治したい」と標準的な治療を受けないことを選択して、結果的に寿命を縮めてしまうという方を、我々は何度も目の当たりにしてきています。

 もうひとつ言及すべきは、こういったクリニックの理論背景は「抗がん治療=希望」という価値観を、患者さん・家族に与え続ける問題です。治療を受けられることは、その方にとって希望のひとつとなることは確かですが、それが全てではありません。私はこれまで、その方の人生ということを軸に、その患者さんを請け負うというクリニックに出会ったことはありません。それは当然ながら、入院施設を持たず、緊急対応も最期の看取りもする気がないクリニックでは、人生を請け負うことなど不可能だからです。

「あなたは、どのように生きていきたいですか」
という対話をきちんと行い、それぞれの治療の限界や不確実性などを理解したうえで納得のいく生き方に自由診療での治療が必要なのであれば、そのこと自体は「悪」とは私は思いません。本当の悪は、「この治療こそが希望です」と患者さんの本当の希望を聞くこともなく、自分たちの治療に引き込んで後悔を残させ、最後には見捨てるクリニックの態度です(それは、こういったクリニック側から「あなたの考え方なら免疫療法を受けるよりも病院で標準治療を受けるべきです」と紹介されてくる例がほとんどないことからも伺えます)。
 結局は、かれらも「医師」なのです。我々も顧みるべきことではありますが、患者さんがどのように生きたいかということよりも、自分が信じる医療をその患者さんに提供することだけが「善」と思ってしまうのでしょう。「苦しんでいる患者さんを救いたい」という純粋な動機で自由診療を行っている医師がいることは知っていますが、その思いは時として我々と同じように独善的なのです。

 我々ができることは何でしょうか。
 危機感をもってこれ以上患者さんたちからの信頼を失わせないこと、既存の医療システムとインフラを生かして「人生を基盤とした」コーディネーターとして、他を圧倒するアドバンテージを得る努力をすること、そして「人生を請け負う」ことの意味を、少なくともクリニックの医師の倍以上は考えること。こういった努力を続けることで、決して自由診療クリニックに好き勝手される世の中は来ず、それはひいては患者さんを守ることにつながるのではないかと考えます。
 しかし、その「危機感」の共有からしてまず難しいということは明白です。少しでも発信の機会を作っていくことくらいしか今は思いつきませんが、また考えていきたいと思います。

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