医療の呪縛

 緩和医療は治癒が困難となった疾患を抱える患者さんに対して「命の長さを延ばすことも、縮めることもしない」医療であるとされている。

 緩和医療の考え方は、だいぶ世の中に広まってきて、死を見据えてどうやって充実した生を生きるか、という部分が重要視されるようになってきた。
 結果として、延命効果の判然としない人工呼吸器の装着や胃ろう造設については、患者さん側も希望しない、こちら側も勧めない、という事例が増えてきたと思う。

 そういった部分をとらえて「緩和では、検査とか治療とかは何もしてくれないんですか」と問われることもある。もちろん、患者さんに対して「何もしない」というのは極論である。
 ただ、「どこまでやるべきか」という部分については、常に悩まされるところではある。

 私はそれを「医療の呪縛」だと思っている。

 私が、最初に研修を受けた病院では、緩和医療を教えてくれた先生は極力医療的なことをしない、という方針であった(というように私には見えた)。熱が出ても下血があっても意識レベルが下がっても検査も処置もしない。
「何もしない医師」に私には映った。
 若かった私は日々それに不満があり、ある時
「こんな状態になって検査のひとつもしないんですか!」
と、くってかかった記憶がある。その時に先生は、
「もう残された時間が少ないときに、検査だ、処置だ、とバタバタして、本人や家族にとっていいことはない」
と穏やかにおっしゃられた。
 当時の私は納得できず、その病院を飛び出してしまったが(それだけが理由ではないが)、今となっては自分自身がその「何もしない医師」である。

 もちろん、本当に「何もしない」わけではない。
 症状を和らげ、患者さん・家族と対話し、死に向かいながら生きる支えとなるように考えながら診療している。
 ただ、ある程度病状が進んできた状況で、大きな処置はしないにしても、ある程度簡便な処置(採血や点滴など)で時間を延ばせるかもしれない、というときに、私は「医療の呪縛」と闘わなければならない。
 医療は「死に抗い、命を延ばす学問である」という側面もある。少なくとも一時期までは、それこそが絶対的な正義で、医師はどんな状況でも諦めず1分1秒でも命を延ばすことこそが至上命題とされてきた。私たちの深層心理にはそういう意識はいまだにある。

 それが今は変わってきた、というのは前に述べた通りだが、この呪縛がいまだに私を苦しめる。
 人工呼吸器のような苦痛を伴う処置はしない、でも貧血があったら輸血をするか?意識レベルが下がったらCTなどで全身精査をすべきか?一時的につらい処置でもやれば確実に延命の可能性がある処置ならするべきか?

 私自身の答えは「それで患者さんの生活(生命)の質が向上されると判断されるならやることを考慮する」というものだ。ケースバイケースで考えるし、そこに延命するかしないか、という部分はあまり関係がない。自分の中ではそれでいい。
 ただ、こういった考えは周囲と相容れない場合もある。
 とにかく、延命できる可能性がある部分については、医師としてきちんと治療すべきだ、という考え。命を延ばすことは何よりも生命の質を高める行為だ、とする考え。それをしないのは医療倫理的に問題だ、とされる。
「何もしない」と決断することは、何かをすることよりも勇気がいることだと思う。考えもなしに「何もしない」決断をしたわけでもない。しかしそう決めた私自身が、周囲から、医療の呪縛から、そしてかつての師を糾弾していた過去の自分から責められているような感覚は常にある。
「何かをして」結果うまくいけば評価される。うまくいかなくても「これだけ頑張ったんだから」という充実感はあるかもしれない。しかし「何もしない」ことは、誰からも評価されず、「何かしておいた方が良かったのか」という苦悩とひとりたたかわなければならない。

 確かに、何かをして、生きて目を開けている時間を延ばす限り、家族と話す時間もできるし、TVを見たり、明日の朝食も食べられるのかもしれない。
 ただ、それはその方の時間的に見れば1点だけを切り取ってしている議論であり、ずーっと病気と戦ってきて、その結果のいま、ということを考えたときに、緩和医療の原則である「命の長さを延ばすことも、縮めることもしない」という言葉が重くのしかかってくる。

 例えば、癌で全身転移があり、痛みなどと戦いながら長く療養してきた高齢の患者さんが、ある時意識状態が悪くなってもうろうとしてきた。家族は、
「もう高齢だし、これまでたくさん苦しんできた。いま苦痛がないならこれ以上検査とか処置はしなくていい。本人もそれを望んでいました。どうせ回復しないのだし。」
と話され、基本的にそのまま看取る方針だったとする。しかし、さらに意識レベルが落ちたときに、病棟の看護師が当直医師に相談し、CTが撮影され、脳転移が見つかる。そうすると、脳浮腫を取る薬を入れたり、ステロイドを投与したり、放射線治療もやるぞ、ということになって、結果的に患者さんは少し意識を回復し、会話もできるようになった・・・、という場合。
 結果的に色々処置をしたことで、患者さんの意識は良くなり、もしかしたら寿命も延びたかもしれない。しかし、患者さんの目を覚まして、その先にあるのは、また病気との戦いである。

 この例において前者と後者の医師、どちらが正しい、と皆さんは感じますか?

長く病気と戦ってきて、ようやく楽になれる時間ができた。本人・家族もこの状態でいることが望ましいという。検査や処置をすること自体が苦痛だし、目を覚まさせても、その先にあるのはやはり苦痛かもしれない。ならば医師はその思いに添おう、という考え。

回復可能な病態があるのであれば緩和医療の対象の患者さんといえどもきちんと検査・処置をして回復するかどうか試みるべき。回復しないかどうかもやってみないとわからないし、回復すれば、また家族と会話をしたり、この世のものを見たりできるのは良いことだ。目を覚まして苦痛があればその都度緩和していけばいい、という考え。

 どちらかが善でどちらかが悪、といった明確には分けられないと思うが、今になって、当時の師の思いが少しずつわかってきた気がする。
 緩和ケア医というのは、けっこう孤独なものなのかもしれない。

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