2013年12月4日水曜日

緩和ケアは考えることを止めてはいけない

緩和ケアをする、というのは本当に難しい、と思うことがよくある。

そもそも、緩和ケアは誰のためのものか。

患者さんのためのものであり、
家族のためのものであり、
決して医療者や病院のためのものではない。
お題目としては、みんなわかっているはずであるのだが。

実際に病院にいると、「それって・・・」と思う場面に遭遇することは多々ある。

「食事を食べられなくなったのですが、点滴1本だけしかオーダーされてないですが、それで本当にいいんですか」
「酸素マスクを嫌がって外してしまうのですが、何とか説得して下さい」
「貧血が進行してきたのでとりあえず輸血します」
「意識の状態が悪くなってきた原因を調べるので全身CTと採血します」
とか。

もちろん、こういう選択肢が全て「間違っている!」というつもりはない。背景にある文脈や患者家族との対話の内容によっては、こういったことが是となることもあろう。
問題なのは「条件反射的に」こういった医療行為を進めていないか、という点だ。
緩和ケアの行為は、基本的に「対話」からスタートすべきだし、その行為に伴う様々な事柄も、「対話」を中心に進めていくべきだと私は思う。

例えば、患者さんが点滴を嫌がっている、でも家族は何も食べられなくなった患者さんが心配でしようがない、という場合。
まずは患者さんとよく「対話」する。点滴がどうして嫌なのか、点滴をすること、点滴をしないことがどういう意味をもつのか、家族の思いについて感じていることはあるのか、などなど。そして家族とも対話をする。患者さん自身の思い、家族の不安、などなど。もちろん、私たち医療者は、それに対してエビデンスや経験に基づいた理論を提供する。点滴をしないことは命を縮めるのか?これまで自分が診てきた患者さん達はどうしてきたか、そして医師として勧められる選択肢は。
そういった文脈の上では、「やっぱりもうしばらく点滴はしましょうか」の結論でも良いし「では、点滴は止めましょうね」でも良く、どちらが正解というものではない。ただ、緩和ケアの領域において、「食事がとれなくなったからとりあえず点滴」という、医療者側の考え方の一方的押しつけは避けたいのである。

緩和ケアは本当に難しい。
医療上の安全が、世間的にもますます厳しくなりつつあるなかで、緩和ケアといえども、そういった「対話」から生まれる選択肢すら取りにくくなってきていることも事実である。
「足が動く限りは自分でトイレに行きたい」という思いも「危ないから」という理由で制限されることもあるし、「死ぬまでに一度、自分の家に戻りたい」といっても「外に出ている間に何かあったら誰が責任取るんだ」といって、思いを果たせない場合だってある。

世の中は、様々な思いの方々が、色々な方向へ世間を動かそうとしている。
それらは多くが相対的なものだ。
私の主張も、決して全て正しいわけではなく相対的なものに過ぎない。
「患者さんのため」という主張も、患者さんの希望を通すことが「患者さんのため」である場合もあるし、医学的な判断を通すことが「患者さんのため」である場合もある。

しかし、それならばなお、医療は何のためにあり、緩和ケアは何を目的に行われ、相対的な視点からみて、目の前にいる患者さんのために「何が最適と思うか」を、患者さん自身や家族とともに一生懸命考え続けることが必要なんじゃないのか。
そこで出た答えが正しいかどうかなんて、誰にも判断できない。だけど、みんなで一生懸命考えて出した答えを、ひとつひとつ納得しながら先に進んでいくしかないのだと思う。
少なくとも、緩和ケアにおいて全ての患者さんに当てはまる答えなんてものはない。
だから、考え続けるのをやめてはいけない。

とっても大変なことだけど、ひとつひとつの処置、薬、検査、そして言葉の選択に至るまで、我々はいつも考え続けないとならないのだと思う。

追記:
ちなみに、緩和ケアにおいてよく美談になるような「患者さんに何かをしてあげた」的な取り上げられ方をするものも、個人的にはあまり好まない。ああいうのがいい、という方もいればそうでない方もいるから。「何かをしてあげる」ことは医療者としてはわかりやすいことだが、ちょっと間違うと医療者側の自己満足にしかならない。患者さんの日常はそういったイベント以外でもずっと続いているわけで、ある患者さんでは「明日も同じ日常が来ること」が、一番の望みだったりする。そういった方に「何かして欲しいことはありませんか、何かしたいことはありませんか」としつこく尋ねることは、患者さんにとって負担になるかもしれない、と考えることも必要である。

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