2013年11月20日水曜日

図書館総合展の武雄市図書館フォーラムから考えること

武雄市図書館をはじめとして、TSUTAYA(CCC)に運営を委託する公共図書館の話題が多く取り上げられている。
しかし、当事者やメディアなどの論調と、図書館関係者を中心とする論調には大きな温度差がある。
先日の図書館総合展での武雄市図書館のフォーラムも、一部に評価する声があるものの、多くの批判を受けていた(詳細は→ http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/31/takeo1_n_4186089.html?utm_hp_ref=mostpopular

私個人的には、これだけ大衆に受け入れられる武雄市図書館のやり方が、専門家やその道に詳しい方からは、こんなにも目の敵にされないとならないんだろう、という思いがある。
そもそも、利用者側の視点と、専門家の視点は、かなりずれている印象すら受ける。

私も少し前までは、図書館とは「(受験勉強など持ち込み資料で)自習するところ」「(古い、または高い)本を借りるところ」といった印象しか持っていなかったし、多くの方々もそうではないだろうか?そういった対象に、武雄市図書館に対する批判は(ポイントカードなどの問題を除き)、理解困難である、といった前提で考えた方がいい。図書館の情報蓄積性と物量+書店の流動する新規図書の組み合わせはとても魅力的で効率性の高いシステムと感じるし、さらにカフェがあって滞留性も高めている点など、利用者側からは魅力的な点ばかりだ。

確かに、専門家の方々が主張される、公共性・持続性の担保などは大きな課題だろうけど、議論すべきはそういうところか?というか、じゃあ公共図書館は何をしてきたの?これから何をするの?といったところの気がする(もちろん、既に積極的に取り組んでいらっしゃるところは別として)。
図書館総合展で展開された指摘でも、すごい細かいな~と思うところもあるわけで、利用者からしてみたら「そんなのどっちでもいいんじゃね?」という部分もあり、専門家っぽいなと。

そういうのは、近藤誠などと医療界の構図とも重なる部分もあると感じる。私も、近藤誠に対する批判記事は『新潮45』で書かせて頂いたけれども、決して全て批判しているわけではない。彼の言い分に頷ける部分もある。そこから導き出される結論が問題なのだけど、『新潮45』の本文にも書いたように、それを専門家の視点でやりあっても、他の非専門家はついて行けないし、引いてしまう。仮に、私が近藤誠を科学的に論破できたとしても、自己満足で終わって、世の中は変わらないわけです。近藤誠の本が売れていたり、メディアに取り上げられたり、菊池寛賞を取っていたりする事実は、事実としてある。その事実は謙虚に受け止めないとならない。

こういう議論をするとき、そういう「各論→総論中心」でやってもダメなんだと。武雄市図書館のいいところもあるが、あれはこれとこれがダメだから、全体としてはやっぱりダメだ、みたいな。
例えば私と近藤誠が議論したら、総論では絶対に結論が出せないわけです。いいところもあるのは認めるけど、そこから得られる基本的スタンスは絶対に受け入れられないから。
私なら、近藤誠と公共の場でやるんなら、そこから一歩引いた視点で、「なぜあなたの理論がこれだけ大衆に受け入れられる(ようにみえる)のか、その背景は何か?」といったところを議論したい。これなら多分、二人で建設的な議論ができるのではないか。これまでの医療のあり方とか、研究というものの見えにくさとか。それでも相当ケンカにはなるんだろうけど。でもきっと将来の医療に対して方向性を示すいくつかのヒントは出せるのかなと。

 今回の図書館展総合展でのフォーラムでも、できればそういう方向でやってもらいたかった。武雄市図書館は住民や近隣地域の方々に受け入れられている、そしてその波は日本全国に影響を与えている、その「背景要素」は何か、という視点で。つまりは事象を微分して、他の地域でも利用可能なコンテンツを取り出して見せて欲しかった。それを、感情的に「公共図書館たるものは・・・」とか「公設ブックカフェというべきだ」とか、そんなタームの問題は、こちら側としてはどうでもいいわけで。通路が狭いとか雑誌閲覧が狭い、というのも、武雄市図書館の利用者じゃない我々の前で指摘されても意味ないし。総論的にも各論的にも否定できる部分はたくさんあるのだろうけど、未来へつなげるためには、せっかく時間とカネを使って、単に図書館あるべき論みたいな部分とか、細かい批判にあんなに時間を使って欲しくなかったなと。仮に武雄市側に「あれを『図書館』というのはやめます」とか「私たちは間違ってました、すみません」と言わせて、誰が得すんのか、と。
定義的なところにそんなにこだわるなら、武雄市側が開き直って「皆さんがそう呼びたいなら『公設民営ブックカフェ』と呼んで頂いても結構ですよ」と言ってしまっても良かったかもしれない、とすら思う。そうでないと、議論が先に進まないのだもの。

ああいう議論をしている限り(そしてそれに対するツイッターでの反応などを見ている限り)、近藤誠と私たちと同じ構図を繰り返すリスクがあるなと。正しければ勝てるわけではない、大勢にどう響いたか、というところに想像力を働かせないと。
じゃあ、私たち利用者は「公設民営ブックカフェ」でいいから、CCC運営の『図書館』を選びます、と全国の図書館が同様に変わっていく可能性は高い。その上で、守らなければならない図書館の価値、といったところに視点を移して、利用者にもっとその部分を伝え、共感を得るよう努力が求められる。

病院や図書館、きっと役所などもそうだろうけれども、これまで「公共性」に支えられてきたこういった組織は、世の中の価値観や生活様式の変化に伴って、自分たちを変えないといけない時期に来ているんだろうと思うし、変えてはいけない部分は、それを多くの方々に届く言葉と態度で、説明責任を果たさないとならないと思う。真の「公共」とは何か、もう一度自分たちに問い直し、行動をする時代が来ていると感じる。

2 件のコメント:

  1. そのフォーラムを聴講した一般人です。
    いろいろありますが一点だけ指摘させてください。
    図書館法に定められた図書館は、補助金の交付が受けられたり、複写等の著作権に優遇措置があります。
    http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19760623001/t19760623001.html
    http://www.cric.or.jp/qa/cs03/

    これらの措置は、公設ブックカフェには適用されません。
    ですので、「図書館かブックカフェか」の違いは大きいわけです。
    武雄市が「自分たちは図書館である」と強弁するのはここに理由があると思われます。

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    1. ありがとうございます!図書館法といった内容については無知なもので、ご指摘、勉強になりました。

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