2012年4月15日日曜日

鎮静と医療者の価値観

患者さんが亡くなった後に、
「いい死だった」とか「あまり良くない最期だった」という医療者が時々いるが、
それが自分たちのケアを評価しての言葉でない限り、私はあまりそういう表現は好まない。
患者の生き方の善し悪しは他人が評価できる類いのものではなく、
あくまで本人(と家族)の主観的なものであると思うからである。

死は生と直結している。
死を多く見る私たちは、そのぶん、患者さんのそれまでの人生や、そこで形成された価値観にも間接的に関わっていくことになる。
一方で、我々も自分たちが生きてきた過程と、それぞれの価値観を持っている。
医療者は、ともすれば自分の価値観の枠内に患者の人生を当てはめて見てしまいがちだが、その結果が冒頭の「いい死、悪い死」の言葉となって出てくる。
終末期の患者さんに、一昔前では死の直前まで2L近い点滴を流すなんてことは当たり前だった。
仮に、全身がむくみ、肺には水がたまり、「陸で溺れさせる」と揶揄される状態になったとしても。
それが、少しでも患者の予後を延ばすかもしれない、栄養を入れなければならない、処置を中止してはならない、という我々の価値観であった。

今でこそ、緩和ケアの概念が広まってきたから、終末期に患者さんを苦しめるような処置は減ってきたが、それでも我々の価値観が患者さんを縛る場面というのは確実にある。
例えば、鎮静に関する場面。
鎮静は、いかなる処置を行っても耐えがたい苦痛があるときなどに、意識レベルを下げて(眠っている状態にして)、本人が苦痛を感じないようにする処置であるが、一度深い鎮静になった場合、その後は家族と会話したりもできなくなるわけなので、慎重に開始する必要があるし、また医療者側にも「まだ何かできることがあるのではないか・・・」と葛藤を生み出しやすい処置といえる。
その葛藤を解消するために、事前に医師、本人、家族、スタッフが入念に話し合い、皆の同意が得られたところで開始するのが常だが、それでもスタッフの心が揺れるのは避けられない。

特に、
「これ以上生き続けている価値がない」
「朝起きて、つらいのを我慢して、夜が来て寝て、また同じ朝が始まるのが耐えられない」
など、身体的な苦痛もないわけではないが、どちらかといえばスピリチュアルな苦痛が強くて鎮静の希望が強い場合など、
健常者の視点で見ると
「まだご飯も食べられる楽しみがあるのに」
「家族と会話もできるじゃない」
と思ってしまいがちなのだが、それはあくまで我々の価値観の枠で患者さんを見ているだけに過ぎないんじゃないか、と思うこともある。
今日この処置をすれば、明日には症状が軽くなるかもしれないから試してからもう一度考えましょう、というのも、このような状況においては傲慢なことなのかもしれない。
ケアをしても無駄だ、と言っているわけではないが、それはもっとこのような訴えが出る以前の、もしくは出てから早期のアプローチが重要なのである。

もちろん、安易な鎮静は私も否定的である(嫌いな方だ)。
ただ、「眠ってしまいたいほど苦痛だ」というのと「苦痛だから眠ってしまいたい」というのには大きな差異があり、後者には実際に鎮静の手段をもってあたらなければならない場面も多い、と感じている(前者はいわゆるスピリチュアルペインに対する支持的なアプローチでケアできることも多い)。

これは、私が5年前に緩和医になってから、ずーっと考えている命題であるが、
このようなスピリチュアルペインが強く、鎮静を強く望む場合に、それを否定するだけの大義が我々医療者側にあるか、ということである。
このような苦痛をもつ患者さんに粘り強く付き合い、ケアを続けることこそが、緩和ケア医のあるべき姿だろう、という声もあるかもしれない。
しかし、そのつらい明日を迎えるのは我々医療者ではなく、患者さんなのである。

患者さん、家族の価値観は我々とは異なる。
私たちはその前提を忘れてはならないし、私たちが了解不可能なことであっても、人生上の重大な決定を、単に我々の価値観だけで覆したり躊躇してさらに患者さんを苦しめたりするようなことがあってはならないと思う(法律上問題のあることやスタッフを危険にさらすことなどは別だが)。
ただ、これはずーっと悩み続けている命題なので、これからも悩み続けるだろう。
少なくとも、鎮静が必要なほどスピリチュアルな苦痛で苦しむ患者さんを、一人でも減らせるよう考えながら、この命題にも取り組んでいこうと思う。

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